喜久雄の業を見抜いた人間国宝
この映画を私が「見る」「見られる」作品であると意識したのは、人間国宝の女形・小野川万菊(田中泯)に喜久雄と俊介が挨拶に行く場面である。喜久雄を見る万菊の、鋭くもあり、また独特の湿度のある目線が忘れられない。「蛇に睨まれた蛙」という言い方があるが、まさにこのような状況を言うのだろうと思った。

このとき、万菊は喜久雄の美しさを「きれいなお顔だこと」と称えつつ、役者になるのであれば、それが邪魔になり、その顔に自分が食われてしまう可能性があることを告げるのである。これは、万菊が同じように自分の美しさに食われてしまいそうになったことを示していたのだろう。
「見る」、「見られる」ということには視線のありなしが関係するが、人間の内面や変化を状況として把握するときに、視線がまっすぐ相手の顔を捉えておらずとも、しっかりとその本質を見ているということもあるだろう。
「歌舞伎なんて、ただの世襲だろ」
喜久雄とのことをまっすぐではなく、斜に構えて見ていたのは、竹野(三浦貴大)である。竹野は歌舞伎の興行を手掛ける会社の社員をしており、喜久雄を見て、「歌舞伎なんて、ただの世襲だろ。あんたは所詮よそ者。今は一緒に並べてもらっても、最後に悔しい思いして終わるのはあんただぞ」とけんかをふっかける。

このシーンを見ていると、なにか竹野にも、世襲や血というものに縛られているか、もしくはそれを持たないことにコンプレックスを抱いているのか、彼自身にも血にまつわる忸怩たる思いがあるのだろうかと想像させるものがあった。もっとも、三浦貴大が三浦友和と山口百恵の息子であると考えれば、この場面を見るときに、なにか考えがよぎるのも無理はないことであるのだが……。

万菊にしても、竹野にしても、若い喜久雄に対して呪いをかけているようにも思える。万菊は、「美しさ」は「芸」を殺してしまうかもしれないこと、竹野は「血」に「芸」は勝てないものかもしれないということを、若い喜久雄に植え付けた。
2025.06.28(土)
文=西森路代