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「ふたをして煮る」ではなく「穴のないふたをして煮る」と書きたい

――「はじめに」にあるフライパンのふたの「穴」の話は納得でした。

井原 「ふたをして○分煮る」というとき、ふたに穴があるとないでは仕上がりがまったく違ってしまうんです。私は必ず「穴のないふた」を使ってほしい。例として麻婆豆腐を挙げますが、日本の家庭料理における麻婆豆腐って、香味野菜とひき肉を炒めて煮て、それぞれのおいしさが溶け出たスープを味わう料理だと思っています。そのスープにとろみをつけて、豆腐と味わう。

――なのに穴のあるふたで煮ると……

井原 水分がどんどん飛んで、おいしいスープを味わえない。なんてもったいない! だからこそ「穴のないふたをして○分煮る」と書きたい。私の記事なら、注釈で入れてもらいますけどね。だからレシピってしっかりと読んでほしいんですよ、さらにいえば火加減のことも。

――と、いいますと?

井原 「火にかけて、沸騰したら中火にして○分煮る」という表現もレシピではよく出てきます。これ、全体を一度ぐつぐつと沸かすのが大事なんです。そうなってから火を弱めて「ふつふつ」ぐらいの状態にして、煮ていく。ちょっと沸いたぐらいで火を弱めると、全体の温度が上がってないから素材から味が出てこないし、そもそも「煮る」という調理になりません。

 ガス火の場合は、最初に鍋のふちのほうから沸いてきます。そして最終的に真ん中もぐつぐつしてくる。こうなって、全体が沸いたことになるんです。ちなみにIHは逆で、真ん中から沸いてきて、熱が外側に広がる。どちらにせよ、全体がぐつぐつと煮えてから、火を弱めて煮ないと、おいしく仕上がらない。

――火を弱めないで、ぐつぐつのまま煮てはいけませんか。

井原 そうすると雑味が出てきて、やっぱりおいしくならない。大事なことですが、文字数的にはここまで書き込めません。

――「ぐつぐつ」とか「ふつふつ」という煮加減の言葉って、文字で伝えるのは微妙な感じでもありますね。

井原 一緒に作って煮汁の状態を見てもらえれば、一発なんですけどね。動画だと伝えやすい部分です。

 私は「DELISH KITCHEN」という料理動画メディアの料理監修とレシピ指導を6年ほどやっていたのですが、利用者の方々から「失敗したくない」という思いをとても強く感じました。だからなるべくリスクのないよう詳しく伝えたくて。でも書き切れない事情も理解しています。ジレンマですね。

――だから今回の本で、思いっきり書き込まれたと。文字量以外で「レシピに書けない」理由もあるのでしょうか。

井原 現代はやっぱり時短レシピが中心で、「作り始めから完成まで20分以内」という要望が多いんです。私も子育てしながら働いていた時期は時短料理のお世話になりましたし、ニーズも分かる。でも料理研究家としては、じっくり時間をかけて作るおいしさも伝えたい。また料理雑誌だと、ごく一般的な食材や調味料しか使えないんです。薄口醤油でもNGになることもあるんですよ。

――本の中ではカリフラワーやビーツ、バルサミコ酢やバジルペーストの意外な活用法や、じっくり料理として牛すね肉を使ったもの、グラタンなども紹介されていますね。

井原 「あ、こんな使い方もできるんだ!」と思っていただけたらうれしいですね。他にも「切る」だけじゃなく、こんな食材はちぎって調理してもおいしいとか、もやしは揚げてもおいしいとか、しょうが焼きは鶏むね肉でやってもおしいですよ、なんてことも。

 あと私は貧血にずいぶん悩まされてきたんですが、鉄分の豊富な食材として「なまり節」が激推し! でもちょっとマイナーな存在らしく、なかなか伝えられる機会がなくて。おいしく食べるレシピを紹介しています。いろんな理由から「書けない」ことを、この本にはたくさん詰め込みました。

――今まで溜めてた思いを書かれて、ストレス解消にもなったのでは?

井原 「書けない」のは残念ではあるけれど、不満ではないんです。自分の仕事って、基本的に「日本の家庭における一般的な調理道具と調味料で、どこでも買いやすい食材で作れる、おいしいレシピを考案すること」だと思っていますから。この本は「もっとあれこれ、じっくり料理してみたい」「もっと料理上手になりたい」と思っている方に届くといいな、って思っています。

2025.05.16(金)
文=白央篤司
撮影=平松市聖(人物)、豊田朋子(料理)