開いたページから香るのは十七世紀バタヴィアの潮風。突如捕らわれた名探偵、降臨を予言された悪魔〈トム翁〉、世界を一変させる積荷〈愚物〉――乗客と船員とはちきれんばかりの計略を乗せ、帆船ザーンダム号が出航する。悪魔の為す奇跡が船を襲い、手がかりの数々が嵐となって読者を打つ。最後まで甲板に立っていられるかどうかはあなた次第だ。
本作はフィクションだが、実際に起きた“世界最悪の難破事件”バタヴィア号事件をモチーフにしているという。ヤン・ハーン総督のモデルはバタヴィアを築いたヤン・ピーテルスゾーン・クーンだろうか。また物語の背後には、近世ヨーロッパの負の歴史が濃い影を落としている。
ひとつは植民地政策だ。アジアとの航路が開拓されたこの時代、イギリスやオランダは「東インド会社」という特権的企業をこぞって設立。香辛料貿易で莫大な利益をあげた(「東インド」は東アジア全域を指す)。国家が東インド会社に与えた特権には貿易独占だけでなく戦争遂行や条約締結まで含まれており、植民地拡大を兼ねた貿易開拓はアジアへの“侵略”そのものであった。
中でも過激だったのがオランダ東インド会社だ。ジャカルタからイギリス人を追い出し「バタヴィア」と改名。アンボイナ島でも英国商館員を皆殺しにする「アンボイナ事件」を起こす。バンダ諸島では島民を大虐殺し、捕らえた島民も奴隷としてバタヴィアに送った。武力によって東南アジアの港を牛耳り、マカオや台湾も襲撃した。オランダ人たちはある登場人物の言うとおり「誇りとすることのできないものと引き換えに褒美を受け取った」のである。
もうひとつは、魔女狩りだ。「中世の」とよくいわれるがこれは誤解で、実際は十六~十七世紀に流行した。こちらで中心となったのは国家よりも民衆だった。疫病や災害といった社会不安に襲われるたび、彼らは“原因”を身近な社会的弱者に求め、魔術を用いたとしてつるしあげた。ヨーロッパ全土で処刑された人数は五万人前後、八割近くが女性であったという。シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』(以文社)では、魔女狩りは女性を飼いならし従順な家事労働者として囲い込むための抑圧システムであった、という分析がなされている。
2025.04.03(木)
文=青崎有吾(作家)