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日本から世界に発信するアーティストを目指す

――そんな練習生としての6年間を、いま振り返っていかがですか?

 今では日本人が韓国に行って練習生になるケースは少なくないと思うんですが、当時はあまりネットワークみたいなものはなく、僕とTWICE(MISAMO)の方々ぐらいだったか、と思います。今の年齢だったら、「うまくいかなかったらどうしよう」とか気にすると思うのですが、当時は「BIGBANGさんみたいになりたい!」「YGに入りたい!」という気持ちが突っ走っていたような気がします。もちろん、言語を通してのコミュニケーション不足など、悔しい部分もあったんですけど、それ以外の不安みたいなものは、良くも悪くもなかったですね。1週間に1回、体重や筋肉量をチェックするので、それに向けての体調管理とか、今になってみれば、「大変だったな」と思いますが、当時は同じ夢を共有し合える仲間と一緒だったからこそ、いろいろ乗り越えられたんだと思います。

――その後、18年に帰国され、日本で活動を開始。そのきっかけは?

 BIGBANGさんのようなグループ活動を目指していたのですが、練習生としての生活を通して、作詞・作曲ができるようになったんです。それで、楽曲の旬みたいなものに気付き始め、それを世の中に発表するタイミングを逃したくないという気持ちがだんだん出てきました。また、「月末評価」のために、グループとしての活動とソロとしての活動を同時に準備することもあって、ソロアーティストとしての楽しさや魅力にも気づき始めました。そんな思いから、日本に帰国して、日本から世界に発信することを目指そうと決めました。そんなとき、それを実現されているONE OK ROCKさんのライブをソウルで見て、背中を押された気持ちになりました。

――ちなみに、最初に楽曲制作を始めたのはいつですか?

 レベルはかなり低かったですが、機材を使って、趣味程度に楽曲制作を始めたのは、まだ日本にいた小学生のときです。YGの練習生になったときに、唯一同い年だった子がかなり本格的に取り組んでいたこともあって、大きな刺激を受けました。作詞・作曲をひとりでやり遂げて、まるまる1曲作ったのが15歳のとき。それからは、当時組んでいたチームのための楽曲を作り、それをみんなでレコーディングしていました。

2025.03.26(水)
文=くれい 響
撮影=平松市聖
スタイリスト=久保コウヘイ
ヘアメイク=大矢