日々、家族関係に悩んでいる人は多いことと思います。それが、亡くしてしまった家族とのものであれば、後悔の念は大きなもののはず。もしも、生前の家族に再び会えるとしたら、あなたはどんな言葉を交わしたいでしょうか。
著者の亡くなったお父様をモデルに、30年前の世界へとタイムスリップしてしまう男の数奇な3日間を描く最新長篇『マイ・グレート・ファーザー』に、多発性骨髄腫を発症し、家族を見つめて書いたエッセイ『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』や『なんで僕に聞くんだろう。』などが話題となった写真家の幡野広志さんが、いち早くレビューを寄せてくれました。
過去と未来、一度だけ行けるとしたらどちらを選ぶだろうか。ぼくは過去を選ぶ。
もしも未来へ行ったとしても、浦島太郎のようになって右も左もわからないだろうから。自分が過去から来たと伝えれば変人扱いされ、警察の世話になる未来しか見えない。
仮に未来から現代に戻ることが確約され、短い時間で未来の歴史を記憶して、現代に戻り未来人になれる人はいい。でも、ぼくの行動力と知能では無理だ。運良く警察の世話にならずとも、未来の娯楽に興じて終わるだけだろう。
過去に行けば、自分は未来人になれる。国際情勢も国内の大事件や災害や流行も知っているから、大金持ちになることも、たくさんの人を救うこともできるかもしれない。過去人と未来人では価値がまったく違うのだ。
そんな過去へ行ってしまったのが、この本の主人公、フリーランスのフォトグラファーをしている46歳の直志だ。妻は白血病で先立ち、引きこもっている16歳の息子と二人で暮らしている。
直志は16歳のときに保険金詐欺を疑われる交通事故で父親を亡くしているのだが、その事故死する30年前の過去へ直志が突然飛ばされて父親に再会するというのが、この話のあらましだ。

「過去に行って亡くなった父親に会う」という空想の話だけど、この物語には、読む者を興醒めさせないリアルさがある。
たとえば、過去に行った直志がまず心配するのは、引きこもりの息子のことだったりする。家族がいる人なら誰だってそうだ。家族がいなくても、仕事の心配をしたり現代に残した何かを心配したりするだろう。一人暮らしでペットを飼っている人は心配でなにもできないんじゃないだろうか。
近年は、異世界に転生して活躍するというジャンルが人気だが、薄い紙を重ねるように積み重ねてきた失いたくない存在ができるぼくの様な中年になると、高校生の恋愛ドラマと同じように、現実の自分とのギャップが大きすぎて感情移入ができず、あまり響かないことも多い。
一方で、直志と自分が重なる点が多い人ほど、『マイ・グレート・ファーザー』は深く刺さると思う。
ぼくは直志と同世代で職業まで同じ。直志もぼくも氷河期世代で、若い頃はもちろん、中年になっても報われない苦しさを現在進行形で味わいながら、写真家としてのキャリアを少しずつ積んできた。
驚いたのは、直志が写真について触れた内容に違和感が全くないことだった。違和感がないどころか、こちらが襟を正すような気持ちにさえなる。映画やドラマ、小説などのフィクションでフォトグラファーが出てくることがあるけど、本業の人間からするとツッコミどころや違和感が満載で、興醒めしてしまうことも正直ある。
写真業界以外の人が想像だけで書けるレベルではないので、著者の平岡さんはしっかりと写真のことを取材されたのだろうと思う。それもかなりレベルの高いところで。
写真の話だけじゃなく、物語に出てくるギャンブルや保険金詐欺やゴミ収集のこともしっかり取材されているのだろう。
おかげで最初から最後まで違和感に足をとられず、リアリティを感じながら読むことができた。
2025.03.12(水)
文=幡野広志