高部 1979年、中学1年生で谷桃子バレエ団の研究所に入所しました。高校2年生のときに「ローザンヌ国際バレエコンクール」で受賞。高校を休学し、スカラーシップ(奨学金)でイギリスの「ロイヤル・バレエ・スクール」に留学しました。帰国してからは高校に復学し、卒業後、晴れて谷桃子バレエ団の正式な団員になりました。

「100枚のチケットノルマ」があった時代も

――その後はプリンシパルとして、『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』、『ドン・キホーテ』などの公演で主演を飾ったんですよね。ダンサーを引退されたのは?

高部 ダンサーはケガがつきもので、私の場合、足の甲に7、8年間ほど痛みを抱えながら踊っていました。そして、45歳のときに「このあたりだろう」と引退を決断しました。股関節も悪くなり、一時は階段が上れないほどだったのですが、2年前に人工関節に置きかえて、今はもうスタスタいろんなところに歩いていけます。ステージでは華麗に踊っていても、ダンサーの身体ってボロボロなんです。

――壮絶……! ずっとバレエで食べていくことはできていたんですか?

高部 ありがたいことに当時はバブルで海外公演も多かったので、教え(バレエ講師)のバイト以外には、バイトらしいバイトをしたことはほぼありません。私は実家暮らしだったのが大きいですね。とはいえ決して裕福な家庭ではありませんでしたし、昔はチケットノルマも厳しかったので、楽をしてきたつもりはありませんが……。

――チケットノルマがあったんですね。

高部 チケットノルマが100枚なんて場合もありました。当時はSNSどころか携帯電話もありませんから、母と手分けして、「ぜひいらっしゃってください」というお手紙をほうぼうに送っていました。

――決して裕福な家庭ではなかったとのことですが、どんな環境で育ったのでしょうか?

2025.02.18(火)
文=原田イチボ@HEW