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悪意が「見える」瞬間
というのも、吉井に悪意を持つ人々もまた、感情の読み取れない不気味な人たちなのだ。彼らひとりひとりのキャラクターは個性的だし、それぞれに吉井に対して憎悪を抱いたきっかけや理由は、一応は説明される。でも、ひとりひとりの顔を見ても、おそろしい憎悪や殺意のようなものは見当たらない。彼らは顔色ひとつ変えず、ときには楽しげに笑いながら、吉井をどんなふうに痛ぶるか計画を練る。
彼らが暴力への衝動に駆られたのには、どんな背景があるのだろう。映画を見ていても、実のところよくわからない。代わりに私たちは、いくつかの小さな、けれど決定的な瞬間を目にする。たとえばそれは、誰かが「あいつ、殺す」という言葉を口に出すときであったり、ネット上に罵詈雑言を打ち込むときだったりする。あいつが憎い、痛めつけたいという欲望が言語化されることで、その瞬間、曖昧だった感情がはっきりとした形になって出現する。
つまりこの映画が描くのは、ネットに増殖する「見えない悪意」のようでいて、実のところ、悪意が「見える」形となって現実に現れた瞬間なのだ。そして、それはまたたくまに暴力へと結びつく。
誰かへの誹謗中傷が山のように湧いてきたり、真偽の定まらない噂が真実のように一人歩きしていったり、ネット上で発生した何かがまたたくまに広がっていく怖さは、私自身、日々SNSなどで体感している。そんなとき、つい「見えないからこそ怖い」と思いがちだけけれど、その裏には、憎悪に満ちた言葉を書き込んだり、それを拡散したり、実際に「見える」形で悪意が発生しているという事実を忘れてはいけない。一度「見える」形で表に出してしまったものは、どれほど後悔しようが、そんなつもりはなかったと泣きつこうが、もう取り返しがつかないのだから。
吉井に襲いかかる人々の顔が、妙に心に残る。彼らはみなどこかぼんやりとした表情を浮かべていて、まるでどんどん凶暴になっていく自分に戸惑っているようだ。いったい何が起きているのか、自分自身ですらわからないというように。暴力とは案外そんなものかもしれない。ほんのちょっとしたことが引き金になり、当人たちもわからないうちに、後戻りができないところにまで至ってしまう。
2024.09.29(日)
文=月永理絵