木下さんは、作品ごとにコンセプトや作風をガラリと変える作家でもあります。本作はエンターテインメント色の強い作品でありながら、玄人筋を唸らせる仕掛けが随所に散りばめられています。生涯、妻帯しなかった武蔵が「三木之助」という名の少年を養子に取っていることもそうですが、僕が注目したのは、本作の悪役、坂崎直盛が失態を犯した部下に紙の陣羽織を着せるシーンです。その紙羽織には異様な文言が墨書されています。「この人身さぐりの上手、家中にはいやな人」、つまり「逃げることばかり上手く、不要の人」と蔑んでいるのです。このような逸話はこれまで聞いたことがありませんでしたし、探してみてもそうした記述は見つかりませんでした。
しかし、実は、江戸時代、山鹿素行によって書かれた歴史書『武家事紀』に、まさにこうした記述があったというのです! 木下昌輝、恐るべし……奇想天外なストーリーの裏には、緻密に原典にあたる気の遠くなるような作業があり、それが物語に厚みやリアリティを与えているのです。このエピソード一つとっても、おそらく、小説では本邦初公開ではないでしょうか。
さらに、このシーンがひどくエロティックに僕には思えたのです。もしかしたら、この時、直盛はサディスティックな性的興奮を覚えていたのではないか? 直盛は悲惨な生い立ちで、愛する従姉を守れなかったという深い心の傷を抱えています。そこから、性的な倒錯を抱えてしまったのではないか、という思いに囚われました。直盛が奇声を上げながら剣を振るうシーンを「赤子を失った母の絶叫を思わせる」と書くセンスも抜群に良くて、感動してしまいます。
木下作品の悪役は、悪いやつほど魅力的なんです。『宇喜多の捨て嫁』の「ぐひんの鼻」も名作中の名作ですが、浦上宗景にも同じような歪みや、その底にある哀しみを感じました。嗜虐心にとり憑かれながら、どこか滑稽で、思わず情が湧いてしまうような悪役を描けるのは、木下さんにしかない類稀なる才能だと思っています。
2024.09.18(水)
文=市川 淳一(書店員・丸善ラゾーナ川崎店)