それでも番組側から「月イチでもいいから、何とか」と粘りに粘られる。そこで平は、仮にデビューを1~2年遅らせたとしても、本当に4人が売れる保証はどこにもないと考え直し、彼女たちをとりあえず、スポーツでいえば全国大会にチャレンジさせるような意味合いで、テレビ出演を承諾した(『週刊女性』1999年10月26日号)。
グループ名は先述のとおり、番組の公募で決まった。さらにレコード会社のトイズファクトリーからオファーを受け、CDデビューも決まる。
「上手く歌えなくてもつまずいても、ヒロは励ましてくれた」
SPEEDは4人組でありながら、全員が同じ割合で歌うのではなく、島袋と今井だけがボーカルをやり、新垣と上原はバックボーカルとダンスに徹している。レコーディングも、ボーカルが複数いれば歌録りのブースには一人ずつ入るのが一般的とされるが、SPEEDは今井と島袋が一緒にブースに入って録っていた。
今井は当時を顧みて、《ヒロの歌の呼吸とテンションに合わせ、ときにはリードしながら歌っていました。私が歌詞を間違えたり、うまく歌えなくてつまずいても、ヒロはブースから外に出ることなく隣で励ましてくれましたし、その逆もまた同じです。OKが出るまでふたりで待つ。そしてふたりでブースを出る。そんなレコーディング環境が、SPEEDらしい作品を生んでいたのかもしれません》と著書に書いている(『動かなきゃ、何も始まらない』光文社、2021年)。
今井は、自分より年は下だがアクターズスクールでは先輩で、会ったときから歌もダンスもトップクラスだった島袋に、追いつこうと必死に頑張った過去を持つ。そんな長いつきあいだからこそ生まれたコンビネーションといえる。
突如として訪れた幕切れ
SPEEDは「Body & Soul」に続く2枚目のシングル「STEADY」以降、ミリオンを連発する。1997年5月発売の1stアルバム『Starting Over』と同年10月の5thシングル「White Love」は200万枚、さらに翌1998年4月の2ndアルバム『RISE』は300万枚を売り上げ、安室奈美恵と並ぶ人気アーティストになった。98年にはまた4大ドーム公演を含む初の全国ツアーを行い、30万人を動員する。4人の主演映画『アンドロメディア』(三池崇史監督)が公開されたのもこの年である。
だが、幕切れは突如として訪れる。1999年10月5日、SPEEDはメンバーそろって記者会見を行い、翌年3月の解散を発表したのだ。デビュー当時のインタビューで、これからの目標として《二一世紀を代表するスピードになること!》と全員で宣言していた彼女たちだが(『サンデー毎日』前掲号)、早くも20世紀中にいったんピリオドを打つことになる。
「Body & Soul」(作詞・作曲/伊秩弘将)
〈解散→再結成→相次ぐ不倫問題に「中身のない子が育っちゃった」と…SPEED“伝説のデビュー”から28年、メンバー4人の“今”は〉へ続く
2024.09.01(日)
文=近藤正高