SPEEDのプロデューサーで、楽曲の作詞・作曲を手がけた伊秩弘将も、《歌詞に関しては小学生に書くというよりも、もう少し上のティーンエージャーをイメージして書きました。本人たちにも、“子供っぽい歌詞はやめようね”といっていたんです。(中略)だから2年、3年先に歌っても恥ずかしくないような歌詞にしようと思ったんです》とのちに明かしている(『女性セブン』2012年7月5日号)。
サウンドは、当初はこのころ流行っていたユーロビートで構成すればいいかなと伊秩は思っていたが、沖縄から届いた本人たちの映像資料で、ボーカルの2人の突出した声質に心動かされるものを感じた。
ここから燦々と照りつける太陽のもとで砂浜を駆け巡るようなダンスミュージックが頭に浮かび、人工的なユーロビートではなく、もっとプリミティブなサウンドにしようと決めたという。ちょっと大人びているけど、明るく健康的というSPEEDの魅力はこうして生まれたのだった。
沖縄アクターズスクール出身の4人
SPEEDの4人を世に送り出した沖縄アクターズスクールの創設者で校長のマキノ正幸(2024年6月28日、83歳で死去)はじつは当初、島袋と今井を2人組としてデビューさせるつもりでいた。それというのも、両者はいずれも幼くしてアクターズスクールに入り、早くから秀でた才能を示すとともに、ステージを何度も経験し、ハプニングにも遭遇するうち、何が起こっても自分がどこでどう振る舞えばいいかがちゃんとわかっていたからだ。
島袋の場合、まだ言葉もうまくしゃべれないときから、歌ったり踊ったりすることが好きだった。そんな彼女を見て周囲の大人たちが、沖縄アクターズスクール(彼女の生まれる前年、1983年に設立)のことを教えてくれた。島袋は見学に行くや「ここに絶対通いたい!」と母親に懇願する。それが、3歳の終わりぐらいというから、まだ物心つくかどうかという頃だろう。
2024.09.01(日)
文=近藤正高