「私の母が大の映画好きで、小学生の頃からよく映画館に連れて行かれていたんです。母の横で昔の映画を観るうちに、オードリー・ヘップバーンやグレース・ケリーといった女優に憧れるようになりました。高校生くらいの時にはミュージカル映画に夢中になって、『ブロードウェイに行ってスターになろう』と決意。高校卒業後は、昭和音楽芸術学院のミュージカル学科に進みましたが、やはりお芝居を重点的に学びたいと思うようになり……。そんな時にたまたま見つけたのが無名塾の募集でした」
「同期が売れていく中で、私だけが…」無名塾でつらかったこと
――無名塾は入学倍率が高く、指導が厳しいことでも知られています。
「思い返せば、確かに朝はつらかった気がします。入塾して3年間は毎朝4時起きで、雨の日も雪の日も毎日走りこんでいました。でも、何よりつらかったのは、劇団の仲間たちが売れていく中で、私だけがオーディションにも受からず、取り残されていくこと。当時、無名塾は朝ドラの登竜門とも言われていたので、漠然と『私もオーディションさえ受ければ朝ドラに出られる』と甘い考えでいたのですが……」
――現実は厳しかった。
「はい。次第に『あれ、私この先、どうやって生きていくんだろう』って思うようになって。そんな時に、仲代達矢さんと奥様の宮崎恭子さんが声をかけてくださったんです。奥様は私に、『やめてもいいけど、ここまでやっちゃったらやめても地獄よ』って」
『やめない地獄』を選んだ
――強烈な言葉ですね。
「『ここでやめたら、死ぬまで“私は諦めたんだ”と思う。でも、やめなくても売れないことの地獄がある。やっても地獄、やめても地獄なら、自分が後悔のない方を選びなさい』と言われました。仲代さんには『赤間は食えるような美人じゃないし、びっくりするほどの才能もないから、まあ60歳ぐらいまで情熱を燃やし続けられるエネルギーがあったら売れるかもね』って」
――20代の若者にすれば気の遠くなる話ですね。
「『60歳!? ウソでしょ!?』って(笑)。同時に、これは大変な仕事を選んでしまったぞ、とあらためて身が引き締まる思いがしました。仲代さんは常々、『役者は毎日勉強しないといけない仕事だ』と仰っていました。それくらいの覚悟がないと役者なんて続けられないんだと教えてくださったんですよね。何より、自分自身が悔しかったから、『絶対にいつか売れてやる!』という気持ちで、『やめない地獄』を選んだのです」
〈「私の人生、何なのよ!」って洗濯物を投げ荒れたり…女優・赤間麻里子(53)の人生を変えた「虎の大ベテランと樹木希林の言葉」〉へ続く
2024.07.20(土)
文=「週刊文春」編集部