大切な存在を看取り、ほっとするのは当然
――『また猫と 猫の挽歌集』の中で、思い出深い一首はありますか?
それぞれ思い出深いんですが、あえてあげるとしたらこの一首ですかね。
ほっとする僕も肯定してあげたい 猫の遺骨を助手席で抱く
(『また猫と 猫の挽歌集』より)
この短歌は先ほどお話しした本の制作中に看取った猫のときにできた短歌です。猫の余命の時間って、向き合う人間のほうの心が不安定になって本当に苦しい。だけど、「この苦しさが終わるということは、こんなに大好きな猫が死んでしまうということ。それは望んではいけないことじゃん」と頭の中をぐるぐると駆け巡って、出口がない状態に陥るんです。だから全部終わった後にほっとするのは当たり前なんだと、自分に言い聞かせるように詠みました。
――ずっと一緒に闘い続けてきたからこそ、ほっとする。だけど、そこには罪悪感があるんですよね。
そうそう。最後の時なんて来てほしくないし待ってもいないのに、何か待っているような時間ってあるんですよね。「一体、何の時間なんだろう」って本当に思います。そんな不安でいっぱいな状態が続くのだから、ほっとして当然。だから、それでいいんだよって、自分にも読み手にも言い聞かせたいんだと思います。
――これまで仁尾さんは多くの猫を看取ってきたと思いますが、挽歌を詠むのはなぜですか?
挽歌に限らず、今は短歌を能動的に詠んでいるというよりは、「できてしまう」みたいな側面が強いです。それを書き溜めていると言う感じ。こんな風に言うと、なんか天才みたいだけど、実際挽歌ができる時って嘔吐するような感じなんですよね。さっき言った「自分に言い聞かせるように」できるので。漫画『ドラゴンボール』(鳥山明/集英社)でピッコロが口から卵を産むシーンがあるじゃないですか。それに似ているなっていつも思います。
――短歌で思いを吐き出すことで、少し楽になれたりするのでしょうか?
そうですね。短歌を作るときって、やはり「人に読んでもらうこと」を考えるんです。どうしようもなく湧いてくる感情を「人に伝えるにはどうすれば」って。そのときにぐちゃぐちゃな感情を少し整理できるんだと思います。これはカウンセリングの効能にとてもよく似ているのではと思っています。悲しみを外に出すことで、消耗もするんだけど、ちょっと自分の状況や思考を客観視できるというか。
――なるほど。読み手にとってもいい作用があるものですか?
読む側としては、看取りのことって、どうしてもスピリチュアル的な方向とか、あるいは医学的なこととか介護的なこととか、または葬儀などの手続きのこととか、その道の専門家からの情報の「受け手」になりがちだと思うんです。滅多にないことで経験も少ないから当たり前なんですが。そうした情報に比べると、短歌って短いから「余白」が大きい。
読む側はその余白分、自分に寄せて読むことができるから、「受け手」から「当事者」に変わりやすいと思うんです。ましてや何の専門性もない読者と同じ立場の「ただの猫好きなおじさん」が作った短歌なので、細かいところまで描写されると「自分とは違うな」ってスッと一歩下がって「作品を読む」みたいな気持ちになっちゃうけど、今回の挽歌はほとんど「核」の部分しか書かれていない。だから、それ以外は「読み手側の状況」に合わせやすいので、グッと一歩進んで感情を移入しやすいところがあると思います。
悲しみ自体はどんな悲しみも同じではないんだけど、大切な命を前にしたときの右往左往や、ままならないことはみんな同じだったりする。それを「ああ、みんな同じなんだな……」ってわかるだけで少し安心できることってあると思います。
2024.06.14(金)
文=船橋麻貴
写真=末永裕樹