と挨拶してから、

「まだ履修登録が終わっていなくてみなさんの名前がわからないので、いまから回す紙に名前と学年を書いてください、あ、ふりがなもふってくださいね」

 となめらかなテナーの声で言い、A4サイズの白いコピー用紙を最前列の学生に渡した。

 ごく普通の初回ガイダンスの風景。朝十時四十分に始まる二限の授業で、履修者は十数人か。まだ寝ぼけた顔をした学生も多い。前から回ってきた紙に「新名翠」の整然とした字が浮かんでいるのを一秒ほど見つめてから、なるべく丁寧に「湯浦葵」と書き、となりの入谷に渡す。そして横目で、蛇がのたうったような個性的な字で「入谷陸」と書き入れられるのを見届ける。

 この三人の名前の並びを見るたびに僕は、去年、一年生のときの最初のロシア語の授業を思いだす。ネイティブ教員のタマーラ先生はソ連時代に日本人のロシア文学研究者と結婚してからずっと東京に住んでいるおばあさん先生で、ふっくらしているのにひょいひょいと身軽に教室じゅうを歩き回りながら元気にロシア語をしゃべりまくる。自己紹介のとき、まず新名翠の苗字を聞くと「ニーナ! ロシア語にするとお名前みたいな苗字ね、かわいらしくてあなたにぴったり」と微笑み、続いて僕の苗字を知って「まあ、このクラスにはユーラもいるの!」と仰天した。最後に入谷の苗字を聞いたときにはもはや微笑みどころではなくなって、「イリヤ! どうしちゃったのかしら今年は、みんな私が子供のころ仲の良かった友達の名前よ……」と笑いながら涙ぐんでしまい、教室がどことなく温かな祝福に包まれたのだった。それ以来タマーラ先生は、ほかの学生のことは基本的に下の名前で呼ぶのに、僕たちのことだけは「ニーナ、ユーラ、イリヤ」と苗字で……とはいえ完全にロシア語の名前と化した発音で呼ぶ。おかげで僕ら自身も自然にお互いを「新名」「湯浦」「入谷」と敬称略の苗字で呼び合うようになったってわけだ。

2024.06.01(土)