石井桃子は児童文学の研究者であって、同時に実作者として童話や絵本の創作も残した。
かなり年長の読者であれば、映画化された『ノンちゃん雲に乗る』の作者としての石井桃子を真っ先に思い浮かべるかもしれない。それより下の世代になると、たぶん、幼時に本の表紙の「石井桃子訳」というか「やく いしい ももこ」という表記によって、世のなかに翻訳というものが存在することを知ったのではないか。
石井桃子は「うさこちゃん」(ナインチェ、英語圏ではミッフィー)やプーさんやピーターラビットといったシリーズものを翻訳し、エリナー・ファージョンをはじめとする重要な作家たちを紹介した。また編集者・プロデューサーとして、『ドリトル先生』を井伏鱒二に、『星の王子さま』を内藤濯(あろう)に、『たのしい川邊』を中野好夫に訳させた(中野訳は抄訳、のちの石井自身による全訳が『たのしい川べ』)。岩波少年文庫の創刊にかかわった。
だから彼女は児童文学翻訳史上最大の重要人物として記憶されているのだけれど、とはいえこの人は「大人の作家」なのだ。
幼年期を回想した『幼ものがたり』において、回想する語り手である〈私〉と回想される主人公である〈私〉とがだらしなく一体化する箇所は一ページとして存在しない。両者はいつもきっぱりと、フェアに分かれている。
石井桃子はいつでも、大人の態度で文章を書く。彼女のエッセイの読者は、それを読みながら、大人であることが自分に求められていると気づくのだった。
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文藝春秋
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2024.05.10(金)
文=千野帽子(エッセイスト)