なぜ死ぬことがこわいのか?
私は何なのか?
私はどう生きるべきなのか?
どんな人たちがいるのか?
等考えそれなりに結論は得ましたが、結果20代前半には早く45歳になることが私の望みでした(45歳くらいになれば少し頭の働きが落ちて楽になれるだろうと考えたからです)。
多くを見る、知るを目的に生きてきて今73歳になりあの3年間で得た結論がほぼ的を得ていたと確信しました。
私たちは確率で生まれて来て自分の判断で今に至っているのでしょうか?
自分という個は連続した遺伝が詰められた箱のような物で連続帯が決めているのではないでしょうか?
あるいは、何かの連続帯があって出生、人生ともに必然の上にあるだけなのかと?
脳(思考)からは在る物の分解、行動は証明出来るが、なぜ在るかはできないと思います。その反対(既定の路線を進んでいるだけ)もあるのかなとの思いが73歳の今、外国を歩いていて、なぜ私は今ここに? 走馬灯のように過去が巡り、今を選択したとは思えない不思議な思いがつぶやきに、そして必然の今ならと考えている中で少しの安らぎの最中です。
(5)50年連れ添っても分かり合えない夫婦でも──あいまいミィさん(女性)・72歳より
中野さんの質問は、日々、私が主人との生活で悶々としている様に似ています。
主人は「皆と同じように」や「決まり事だし」を嫌い、高校生の頃から先生と衝突してきた人です。その話を聴いている間は面白かったのですが、一緒に暮らすのは難儀です。自分の家だけなら兎も角、娘や息子が結婚し、相手先とのお付き合いとなると……。「行事ごと」、「盆、正月は実家へ」、「子供や孫に何かを残す」……そういう考えは、主人の頭にはないようです。自分で決めた事だけする。本人はそれで幸せなのかもしれません。でも、周りは火の粉を被るような事になる訳で。
中野さんの質問への答えには、なっていないですね? でも、50年連れ添っても、分かり合えない夫婦でも、なんとか折り合いを見つけて暮らそうとしている事をお伝えしたかったのです。
2024.04.09(火)
文=こみねあつこ