人間の夢を喰らって生を得る〝夢魔〟たる私が出逢ったのは、
大男に監禁された可憐な美少女だった。
彼女を救うため、夢に入り込むことにした私は――
一
亡霊のほとんどは場所に憑くもので、ひとところに執着して来る日も来る日も道端に立ちつくしたり、打ち捨てられた屋敷のなかを果てもなく歩きまわったりする。人や物に憑く亡霊もいて、そういう連中はその人や物の行く先ざきにどこまでもついてゆく。いずれにしても、亡霊というやつは、自らの意思で自由に歩きまわることがない。言葉が通じるやつもいるが、空気が読めず、自分のことばかり話したがり、ろくに人の話を聞かない。かと思うと、ただただぼうっとしてひと言も口を利かないのがいたり、猛犬さながらに唸り声ばかりを垂れ流しつづけるようなのもいる。要するに、亡霊というやつはなべて愚鈍で、意思の疎通が難しい。馬鹿の一つ憶えみたいに会うたびに同じ話をくりかえし、精神の発展というものがなく、存在の根底から虚ろなのだ。おそらく亡霊が人の霊魂そのものであるという考えは間違っている。写真が世界の一部を紙に写しとっただけの偽物であるように、亡霊もまた霊魂の断片を写しとって世界に焼きつけただけの偽物ではあるまいか。つまり亡霊とは、死んだ人間の残像に過ぎないのではないかと私は考えている。
一方、夢魔はどうだろう。夢魔は亡霊と同様、物理的な体を持たないが、何に取り憑いているわけでもなく、自由気ままに動きまわることができる。望むなら女風呂に忍びこんで飽きるまで裸を眺めまわすこともできるし、映画やドラマに出てくるような銀行の馬鹿でかい金庫にだって好き勝手に出入りすることができる。ならばなんの執着もなくただ漫然と存在しているのかというとそんなことは全然なく、夢魔はつねに飢えに苛まれており、その飢えを満たすべく濁世をさまよいつづける宿命にある。つまり、夢魔は一種の餓鬼なのだ。
何に飢えているか。もちろん夢にだ。夢魔は基本的に夜行性の存在で、夜ごと人間の枕元に立っては、夢を貪って卑しい腹を満たすのである。これが伝え聞くところの幻獣の獏ならば悪夢を選んで喰うのだろうが、夢魔は子供の夢が新鮮で旨いとか大人の夢のほうが滋味に富んでいるとかそれぞれに好みがあって、みな口に合う夢を求めて夜の街を彷徨するのだ。かく言う私も、若い時分は老若男女・良夢悪夢を問わず手当たり次第にがつがつと夢を喰らい歩いたものだが、近ごろは年寄りのまったりとした薄味の夢のあとに子供のめりはりの利いた濃い夢をちょこっとデザートのように嗜むのが乙だなどと考える生意気な舌になってきた。しかし私なんぞまだまだうるさくないほうで、若者の淫らな夢しか喉を通らぬと言いはるスケベにも会ったことがあるし、何者かに追いかけられる逃走夢の切迫感が味わい深いとか、どこかから落ちる墜落夢の刺激がたまらぬとか言って目をぎらつかせていた夢魔もいた。夢魔の世界には〝駄夢〟という言葉があって、まさに〝駄夢喰う夢魔も好きずき〟なのである。
亡霊が死者の残像であるならば、夢魔はいったいなんなのか。これはまったく一筋縄ではいかない問いなのだ。外見が人間にそっくりであるために、元来は人間であったとする説が主流ではあるが、不思議なことにその証拠がない。私ももちろんそうだが、どの夢魔も人間だったころのたしかな記憶を持たないのだ。いや、どこそこの町で暮らしていたとか海で溺れて死んだ気がするとか言いはる夢魔もいるにはいるが、これは人間の幼児が、母親の赤暗い腹のなかでモーツァルトを聴いていたと言いだすのと同じで、ありがちな与太話として片づけられてしまうのである。しかしまったく証拠がないかというとそうでもなくて、夢魔は一人残らずちゃんと人間の言葉を話す。しかもそれぞれに訛りがあって、故郷の記憶はなくとも、人間としての生まれ育ちを思わせるのだ。
私のもっとも古い記憶となると、四十年以上も前の話になる。これはあとから鏡を見て気づいたことだが、当時の私は七、八歳ぐらいの痩せっぽちの少年の姿をしていた。赤いTシャツに青い半ズボンを穿いていたのだが、なんでそんな格好をしているのかもわからぬまま、S市の住宅街にある公園のすべり台の上に腰かけた状態で、夜更けにはたとおのれが存在していることに気づいたのである。この〝はたと気づく〟覚醒の感覚は、夢魔ならば誰しもが知るもので、〝自己開闢〟とでも名づけたくなるような、実に劇的な経験だ。自分がどこの誰兵衛だかわからないし、いまのいままで何をしていたのかもわからない。ただ眼前に、夜更けの公園がひろがっている。しかし右も左もわからぬ赤ん坊というわけではなく、あれは砂場で、それはブランコで、と人間の子供が知っていそうなことはたいてい知っている。人間にも記憶喪失者というものがいて、見知らぬ土地で突然に意識が目覚めるらしいが、まさにそれと同じだろう。
しかし夢魔が人間の記憶喪失者と違うのは、覚醒して早々、夢魔としての本能に突き動かされるところだ。飢えを感じ、しかもその飢えを満たすには、母親の乳房にむしゃぶりつくのではなく夢を喰らうしかないと知っているのである。人間の食べ物と同様、夢にも香りがある。眠った人間からその香りが立ちのぼって夜の町を漂い、夢魔の飢えを刺激する。自分は何者であるかという形而上学的疑問はさておき、夢の香りに誘われるまま、幼い私は、公園のそばの一軒家に忍びこみ、川の字になって眠る三人家族の夢を片っ端から喰らいに喰らった。味もへったくれもない。腹を空かせきった子犬がごたまぜの残飯に鼻先を突っこんで貪るようなものだ。このように〝夢魔の誕生〟とは、往々にして無粋で野蛮なものなのである。どういう理屈かはわからないが、夢魔の覚醒は、まず例外なく若いうちに起こる。年齢は推測に過ぎないが、下は三、四歳から、上はせいぜい二十代前半ぐらいまでだ。中年老年の姿で目覚めたというたしかな話はとんと聞かない。この事実について話しだすと、みなあれこれ意見を述べるが、いまのところこれといって有力な説はないようだ。
2024.03.18(月)