二
私が夢魔として目覚めてまだ二年目だったろうか、M市の山の麓の一軒家に杉本という六十がらみの男が暮らしていた。ひと言で言ってしまえば、杉本は落ちぶれていた。のっぴきならぬところまで落ちぶれていた。枇杷だの紅葉だのの立つ庭は田舎の野ッ原みたいに草ボウボウ、家は得体の知れぬ蔓が四方八方から二階の棟までむらむらと這いあがり、廃屋さながらだが、その懐の暗がりで、杉本は一人、辛うじて生きていた。喰うや喰わずの暮らしで骸骨に皮を張りつけたみたいに痩せさらばえ、ごろりと浮いた頰骨の上で、頑固そうな金壺眼がどんよりと鈍く光っていた。両親はとうに漆塗りの仏壇に収まり、元よりいないのか、それとも縁が切れたか、妻子もいない。当然、職もなく、風体は浮浪者そのもので、垢じみた服に身を包んで覚束ない足取りで歩き、電気もガスも、水道までもが止められて、日一日と飢え死にという終着への道すじをたどっていた。正気を失っていたわけではないようだが、しきりに独り言を言った。それでもなおでっかい矜持が胸のど真ん中に居すわり、死という一度きりの訪問者が一歩一歩近づいてくるのを両の目をかっぴらいて見届けてやろうという腹づもりらしかった。
当時、私はまだ夢魔としてひよっこもひよっこだったが、しだいに夢の旨い不味いがわかる生意気な歳ごろになりつつあった。鼻先をかすめた豊かな夢の香りに誘われ、あるときぼろ屋の八畳間で煎餅蒲団に寝転がる痩せこけた初老の男の夢を喰ってみたら、外見に相違してべらぼうに旨かった、それが杉本との出会いだ。人間、歳を取ると、生活と同様、見る夢までめりはりがなくなって退屈になってくる。しかし杉本の夢は、いまだ若々しくて鮮烈で五感に強く訴えてくるものがあった。ならば味が濃いだけの子供じみた夢なのかというと、決してそんなことはなく、複雑で奥行きがあり、何より驚きに満ちた壮大な光景がくりひろげられる。私は杉本の枕元に座して夢を味わいながら、思わず驚嘆の溜息を漏らしたものだ。以来、杉本邸の二階の一室をねぐらにし、亡霊よろしく取り憑いて、夜な夜な杉本の夢を喰らうようになったのである。
しかし夢が旨いだけなら、二年ものあいだ杉本邸で寝起きはしなかったろう。同じ人間の夢ばかり喰らっていると、いくら美味でもさすがに飽きが来るのだ。これはもう夢魔なら誰しもが経験することで、夢の旨い人間を見つけてしばらく通いつめることを〝のぼせる〟と言うのだが、〝のぼせ〟はやがて冷めてしまう。私の初めての〝のぼせ〟も半年ももたずに冷めてしまったのだが、それでも杉本のもとから去らなかったのにはわけがあった。杉本は、私が出会った初めての〝気取り〟だったのだ。
〝気取り〟とは、夢魔の気配を感じとることができる人間のことである。ちなみに夢魔の姿を見ることができる人間は〝見取り〟と言って、俗に百万人に一人とか言われているが、〝気取り〟もずいぶん数が少なくて、一万人に一人とか言われ、その数字の真偽はさておき、滅多にお目にかかれない人種であることは間違いない。〝気取り〟は、私が部屋に入ってゆくと、はっとこちらを見て訝しげに首を傾げたり、なかには何かがいると決めこんで話しかけてきたりするのもいる。
夢魔にとって〝気取り〟の存在は厄介なので、そんな家には近づかないのが上策だ。しかし私は最初、杉本が〝気取り〟であることに気づかず、彼が目覚めたあともぼろ屋にとどまってあっちの部屋こっちの部屋とうろうろしていた。そして杉本のいる居間に戻ったとき、彼は私の気配を感じとったらしく、口をひん曲げて自嘲めいた笑みを浮かべると、新聞紙をこするみたいなざらついた声で、
「とうとう来たか」と弱々しくつぶやいたのである。
私はぎょっとして敷居の上に立ちつくした。もしや〝見取り〟か、と思ったのだ。が、違った。こちらが動いても視線がついてこない。ならば心を病んで幻聴でも聞いているのかと言うと、そうでもないらしい。私が部屋のなかを歩きまわると、眉根をよせて懸命に気配を探るふうで、なんとなしに杉本の意識がまとわりついてくる感じがある。ああ、これが噂の〝気取り〟か、と思った。杉本は得体の知れぬ気配に臆する様子もなく、
「そろそろ俺も年貢の納めどきか」と深く溜息をつき、喉の奥でかさこそ笑った。「やるならひと思いにやってくれ」
どうやら死神か何かと勘違いしているらしかった。夢魔は夢を喰らうが、人間の命までは喰らわない。というより喰らえない。夢を喰われた人間は寿命が縮むという噂は聞いたことがあったが、河童に尻子玉を抜かれたら死ぬみたいな話と同様、本気で信じている夢魔はまずいない。
私は試しに、
「死神なんかいないぞ」と声をかけてみた。「誰も迎えになんか来ない。人間はみんな望んでもないときに勝手に死ぬんだ」
杉本は何かを聞きとったらしく、山彦でも聞くみたいに耳にひらいた手を立てると、眉をひそめて「ん?」と声を漏らした。
それからもあれこれ話しかけてみたが、杉本はこちらの気配を感じとることはできても、意思の疎通ができるほど声をはっきり聞きとることはできないようだった。正直〝気取り〟というのも案外つまらないなと思ったが、杉本のほうはそれが日ごろの習慣なのだろうか、お構いなしにぶつぶつと独り言を続けた。
「ちくしょう、変なやつが家に居ついちまった。それもこれも俺が死にかけてるから、死肉喰らいみたいなのを呼びよせちまうんだろうな。しかし考えてみりゃ、それはそれで都合がいいかもしれん。俺が死んだあと死体を綺麗さっぱり平らげてくれたら、こんなにありがたいことはないもんな。人間てのはもう、どうしたって自分の死体だけは片づけられんから……。それができるようなら、自分の襟首引っつかんで空を飛べるだろうな。え? そう思うだろ?」
とまあそんな調子だ。木乃伊みたいに痩せこけた死に損ないだというのに、妙に口は達者で、ときおりこちらに同意まで求めてくる。言葉を返したところで聞こえないのはわかっているが、人間から声をかけられるという感覚が新鮮で、つい返事をしそうになった。杉本は〝気取り〟のなかでもずいぶん勘のいいほうらしく、不意に、
「お前、まだ餓鬼みたいだな。え?」と言いだしたときは、ちょっと驚いた。「といってもまあ、なんの餓鬼かわからんが……。さあ、どうなんだ。お前はいったいなんの餓鬼だ。言ってみろ? え?」
ちょうどそのとき、間が悪いことに、庭先から鴉がけたたましく鳴きながら飛び去っていったものだから、
「そうか。お前は鴉の餓鬼か」と独り決めされてしまった。「俺は鴉が嫌いだ。鶯が鳴けば、春の陽気に心も爽やか、雀が鳴けば、可愛らしいし、鳩が鳴けば、ほのぼのせんこともない。しかし鴉が鳴けば、そこは墓場かゴミ捨て場と相場が決まってる。言われてみれば、鴉はたしかに死肉喰らいの一味だな。なるほど、なるほど……」
以来、杉本は私のことを子鴉と呼ぶようになった。おい子鴉、こんな爺いの死肉は筋張って不味かろう。おい子鴉、その嘴で背中をちょいと搔いてくれ。おい子鴉、夕焼け空に鴉ってのはさすがに悪くないな。おい子鴉、おい子鴉……そんな調子で呼ばれつづけていると、もともと名乗る名前も持たぬ身だから、かあと鳴いてゴミでも漁るかとはならないまでも、子鴉という呼び名がその空白に居ついてくる感じがあった。
杉本と二人、一つ屋根の下、夢魔と人間の奇妙な同居生活を続けるうちに、だんだん杉本の人となりがわかってきた。杉本の家にはずいぶんとあちこちに本棚が立ちならび、蔵書はざっと数えただけでも数千冊はくだらなかった。杉本の独り言につきあっていると、問わず語りに過去の話がぽろぽろと出てくるのだが、どうやら彼はかつて小説を書いて口を糊していたらしかった。その言葉どおり、二階の六畳間の本棚には〝杉本繁昭〟と著者名の書かれた本が何十冊も並んでいた。『王樹物語/シラクモと琥珀の女王』『王樹物語/シラクモと時間の街』『アルマニア銀河鉄道』『2100年の子供たち』などなど、どうやら子供向けのファンタジーやSFを書いていたようだ。しかも表紙に「文・絵/杉本繁昭」とあるから、挿絵まで自分で描いていたことになる。大した才人だったのだ。ずらりと並ぶ背表紙を眺めながら、杉本の豊潤な夢の源泉は、なるほどここにあったかと納得させられたのである。
「杉本繁昭というペンネームはな、俺の親父の繁とお袋の昭子の名前をくっつけたもんなんだ。若いころに、ちょっとでも親孝行になるんじゃないかって考えたんだな。でもそれが悪かったのか、八年前に父親と母親がぽんぽんと立てつづけに死んでしまうとな、途端に書けなくなった。ペンネームまでが死んじまったみたいに頭んなかはすっからかん、なんにも思い浮かばなくなったんだ。それでこのざまよ」
「おい子鴉。教えといてやろう。人間には二種類いるんだ。なんにも生み出さなくても平気で生きていけるやつと、何かを生み出しつづけないと生きていけないやつだ。俺はもうおむつを脱いだころからずっと、頭んなかでああでもないこうでもないと空想を巡らしてな、息をするみたいに物語をつくりつづけてきたんだ。それがどうだ。親父とお袋が死んだ途端、なんの物語も湧いてこなくなった。こうなったらもう、俺は世界一の役立たずよ。あとはもう死を待つばかりって身だけどな、これがなかなか死にゃあしない。腹が減ったらひもじくて、どうしたって喰っちまう。何もきょう慌てて死ぬこたあない、あした死にゃあいいじゃないか、と思うんだな。寝るときゃあ寝るときで、もう二度と目覚めさせんでくれと祈りながら目ェつぶるんだけどな、しぶといもんで朝が来るとやっぱり目が覚めちまう」
そうは言いつつも、杉本はやはり日に日に衰弱していった。ときどき蔵書を大きなリュックに詰めこんでいくばくかのカネに換えてどうにかこうにか喰いつないでいたようだが、きっと体のどこかを悪くしていたのだろう、いつしか本を売りに行く体力もなくなってしまった。ときおり町内会の人だの行政の使いみたいな人だのが心配顔で家に来て、杉本を病院に入れようとしたり喰い物を恵もうとしたりするのだが、彼は誰の世話にもならんと石みたいに硬い顔つきで追いかえしてしまう。「おい子鴉、誰も近づけるなと言ったろう」と息も絶えだえの囁き声で言ったものだ。出会ったころは、寝床のまわりに副葬品みたいに本を散らかして、日がな一日読みふけっていたものだが、とうとうそれもやらなくなった。本を持ちあげる力もなくなったのだ。あとはもう弱々しく目をつぶり、魂魄を吐き漏らさんばかりにぽこんと口を開け、来る日も来る日も鼾をかきながらうとうとするばかり。六十過ぎと見ていた顔が、いまや七十とも八十とも見まがうほどに萎びに萎び、浮かぶ死相は一目瞭然。二年にも亘ったつきあいから、そのころにはもうすっかり杉本に情が移っていたし、さんざん旨い夢を喰わしてもらったという義理もあったから、どうにかしてやりたいと気を揉むのだが、夢魔ごときが人間にしてやれることなんか何もない。いや、あるにはあったのだが、幼い私にはまだそれを杉本にしてやることができなかった。
夢魔は本来、夢を喰うばかりでなく、人間に夢を見せることもできる。それまでに喰った数多の夢のかけらから新たな夢を捏ねあげて、眠る人間の頭に吹きこむことができるのだ。それは〝吹きこみ〟と呼ばれているのだが、夢をこしらえるのは手間がかかるし腹は減るしで、夢魔にとっては一文の得にもならないから、誰もあえてやろうとはしないし、となるといつまでも上達しない。私も面白半分で幾度か試してみたことはあったが、コツもわからないし手ほどきしてくれる者もなしで、すぐにやめてしまった。だから、永遠の眠りに就こうとする杉本の枕元に座したまま、最後にいい夢を見せてやることも叶わず、ただもう刻一刻と命の細ってゆくのを見届けることしかできなかった。
私が杉本の死から学んだことは数多くあるが、その一つが、人間というものは、いよいよという最期の瞬間においてもどうやら夢を見るらしいということだ。三途の川を渡るだの、一面のお花畑の向こうから先立った者が手招きするのを見るだの、巨大なトンネルを通ってゆくだのという話は聞いた憶えがあったが、その手の夢を見ていたかどうかはわからない。夢というものは、眠った者の体から色とりどりの煙のように立ちのぼっており、夢魔はその煙を吸いこむことで腹を満たすわけだが、私は興味を惹かれつつも、どうしても杉本の末期の夢を喰らうことができなかった。というのも、細ぼそと立ちのぼるその夢が、杉本の命の輝きそのものに思え、それを喰らえば、私がとどめを刺すことになるのではと恐れたからだ。この二年間さんざん夢を喰わしてもらった上に、最期の一滴までをも搾りとるなどという惨いことはできなかったのである。
秋の夜更け、三時ごろだったと記憶している。弱々しく夢を立ちのぼらせていた杉本の頭の辺りから、ある瞬間、ひと抱えもある極彩色の濃密な夢が入道雲のようにむくむくと立ちのぼり、天井すれすれに塊となって浮いたかと思うと、身悶えするようにかたちを変えながら漂いはじめた。私は啞然としてそのさまを見あげた。全体的に青みがかっており、そのなかに赤、緑、黄、紫などの淡い光が蠢いていて、まるで生きたオパールのようだった。本当にあれは夢だろうか、と内心、首をひねったが、じゃあなんなのかとなるとわからない。いや、思うところはあった。もしやあれが魂なのではあるまいか、あれこそが杉本の本体ではあるまいか、と。すでに亡霊はあちらこちらで見かけていたが、しかし似ても似つかない。亡霊は人のかたちを取り、歩きもすれば喋りもする。一方、目の前の光の塊は、早送りで見る雲のようにかたちを素早く変えながら浮かんでいるだけだ。じっと見ていると、どうにもこうにも焦点が合わず、しだいに意識が吸いこまれそうな、全身が虹色の雲に包まれてゆくような感覚に陥る。
ふと気づいた。杉本の額の辺りから一本の糸のようなものが出て、虹色の雲とつながっているではないか。その糸はよくよく見るとちらちら白く輝きながら、風になびくようにゆっくりと揺らめいている。その糸も初めて目にするものだったが、直感が働いた。ああ、この糸が切れれば杉本は死ぬんだな、と。咄嗟に、この糸を手繰って雲を杉本の体に押しもどしたらどうだろう、という考えが閃き、糸に手を伸ばしかけたが、蜘蛛の糸よりもなお細くて頼りなく、触れただけで切れてしまいそうで、手を引っこめざるを得なかった。これは、というより人間の死というものは、一介の夢魔ごときにどうこうできる代物ではないのだ。
「おい子鴉。この世界ってのはな、人間の数だけ物語があって、人間の数だけ主人公がいるんだ。どんなクズみたいな物語だって、誰かが主人公をやらなくちゃならない。悲しいもんだよなあ。切ないもんだよなあ。そう考えると、俺はまだマシだ。大した人生じゃなかったけど、やれることは全部やりきったからな。いや、違うな。きっと人間だけが物語を生きてるってわけじゃないんだろう。お前が何者かはわからんが、お前はお前で自分の物語を生きてるんだろうな。そして俺は、そんなお前の物語のなかに、脇役として登場するんだろうな。……おい子鴉、そこでお前に頼みがある。俺の死を見届けてくれ。お前の物語のなかに、俺の死を書きこんでくれ。人間は、自分の死体を片づけられんのと同じように、自分の死を書くこともできんから……」
そんな杉本の言葉を思い起こしていると、なんの兆しもなく、糸がふっと切れ、かすかに煌めきながら虚空に消えた。虹色の雲は、その後も天井際に漂っていたが、そこから線香の煙のようにいくすじもの光が色褪せながら立ちのぼりはじめると、しだいに全体が萎みはじめ、やがて跡形もなくなってしまった。私はしばしのあいだ、その何もない空間をぼんやりと見つめていた。見おろすと、いまだ杉本の肉体は薄汚れた万年床に仰向けに横たわっていたが、そこに彼がいるという存在感は搔き消え、ただ乾いた抜け殻だけが投げ出されているのだった。
こうして私は、杉本の言葉どおり、その死を見届けたのだ。そしてそのことは、たしかに私という物語の一部となった。その後も私は幾度か人の死に立ち会う機会を得、そのたびに色とりどりの雲のようなものがその身から浮かびあがるのを見たが、杉本の雲ほど色鮮やかなものを見たことがない。その鮮烈さは、杉本が夜な夜な見る夢の鮮烈さそのものであるようにも思え、もしかしたらあの雲は、魂などではなく、人間が今際のきわに見る、人生の終幕を飾る夢なのではないかなどと考えたりもするのだ。
私はおよそ二年に亘って杉本の家に寄寓したが、彼の死後、その町を離れ、長い放浪生活に入った。子鴉は巣立ちをしたのである。
2024.03.18(月)