次に演奏したのはリュカ・ドゥバルグ。パリ生まれの彼はフランス民謡を届けた。
そして遂に私の番がやってきた。ここにはない懐かしさを歌うような短調の曲が続いたため、長調の《花は咲く》は少しばかり良いアクセントになるだろうか。緊張で額から冷汗が垂れてくる。指は震え、手汗もすさまじい。正直、スピーチの内容は一切記憶にないのだが、私がカミカミなので場内からわっと笑い声が上がったのは覚えている。ピアノの前に座って顔を上げると、目の前でプレトニョフが腕組みをしてぽかんと上を向いていた。そんな中おずおずと弾き始めた前奏は、この日数回さらった程度では当然手の内に入っておらずボロボロで、思い浮かんだ時にはほくそ笑んだ自作のハーモニーや内声は緊張ですっ飛んだ。2番まで弾く予定だったが、緊張で唇まで震え出したので、サビを何度か繰り返したあと後奏に逃げて曲を終えてしまった。しかし予想に反してオーディエンスの反応はよく、ほっとした。ちらりと確認するとプレトニョフもちゃんと聴いてくれていたようだ。
その後はアントワン・タメスティがヴィオラを演奏し、ユジャ・ワンがピアノで中国民謡を奏で、サー・ブリン・ターフェルがサイモン&ガーファンクルの《Homeward Bound》を歌い終わるころには、もう時計の針は2時を回ろうとしていた。
プレトニョフの“天才の業”
次は誰の番かと皆が顔を見合わせたその時、これまでどこか他人事のような表情で明後日の方向を向いていたプレトニョフが立ち上がった。彼はピアノの前に座るや否や、ラ・ド・ミの不穏な和音を地獄の門を叩くかの如く4回強打する。一瞬で静まり返るシャレー・ダドリアン。一体この男は何を始めるつもりなのだろうか……皆、苦笑いと困惑の表情である。その後聞こえてきたのは、「恨めしや」と言わんばかりの短調バージョンの「ハッピーバースデー」の旋律だった。そういうことかと、皆の安心した声が漏れる。しかしそれも束の間、ラ・ド・ミ和音の強打が皆の安堵の表情をかき消し、再び「ハッピーバースデー」に移行したと思うと、転調を重ねてふらふらと漂い始めたではないか。その旋律がトップバッターのマイスキーが贈ったラフマニノフの歌曲をなぞり始めた瞬間、私は思わず「まさか!」と小さく声を上げた。ラフマニノフと「ハッピーバースデー」がマーブル模様のように交互に見え隠れする。やがて誕生歌はリュカ・ドゥバルグのフランス民謡の対旋律になり、するすると蛇が自由に這うようにユジャの中国民謡のバス旋律へと変身した。そして私の弾いた《花は咲く》にも変奏し、ターフェルが歌った《Homeward Bound》の旋律とも絡み合う。こうして5分間で全員の故郷を旅した「ハッピーバースデー」は、最後は盛大に締めるのかというみんなの期待を裏切って、キラキラした中国民謡で戯けて終わった。この男はただ呆けていたのではなかった。皆の音楽を誰よりも注意深く聴き、それを即興で自分のものにして、「ハッピーバースデー」の変奏曲へと昇華させたのだ。天才の様をまざまざと見せつけられ、会場にいる誰もが“持っていかれた!”と茫然自失している。実はまだ一人ロザコヴィッチの演奏がこの後に控えていたが、彼はこの雰囲気の中ではもう弾けないと言わんばかりの表情を浮かべ、会はお開きとなった。放心状態の私はいつも車で自分のシャレーまで帰るところを、夜風に当たりたくてひとりとぼとぼと歩いて帰った。
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記事の全文は、藤田真央さんの初著作『指先から旅をする』(文藝春秋)に収録されています。
〈世界のトップ・ピアニストが集まると……? アルプスで行われた記念碑的コンサートに密着〉へ続く
指先から旅をする
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2024.02.13(火)
著者=藤田真央