マーティンの到着を待っている間、ブロンフマンとマイスキーは緊張でそわそわしている。ブロンフマンはどこからか延長コードを持ってきて電灯の調整をし、マイスキーは「70歳を過ぎて暗譜が一向にできなくなってしまったんだ」と嘆いて、楽譜を片手に檻の中の虎のようにぐるぐるとバルコニーを行ったり来たりしていた。私はというと、数分の日本の曲を弾くだけということもあり余裕綽々(よゆうしやくしやく)だった——まだこの時は。

 マーティンが現れると周りの空気が一変し、緊張感が漂い始める。私はそれでも臆せず椅子に座り、開会をワクワクしながら待った。のんきな私は、例のあの人の登場をまだ全く予想していなかったのだ。ブライスがパーティ開幕の挨拶を始めたその瞬間、見覚えある人影が朝礼に遅刻した人のようにひっそりと気配を消してやってきた。私にとっての最大のサプライズ、プレトニョフその人だ。私はもちろんプレトニョフのスケジュールを調べていて、彼が今夜ヴェルビエに到着することは把握していたが、まさかこのパーティに出席するなんて……。てっきりゆっくり静養しているものと思い込んでいた。つい数分前までの余裕はどこへやら、思わぬ来客に鼓動が加速する。

 緊張から早く逃れたいと言って、トップバッターでブロンフマンとマイスキーが演奏を始めた。曲はラフマニノフの歌曲《6つのロマンス 作品4》から〈第4曲「歌うな、美しい人よ」〉のチェロ編曲版と、ウクライナの民謡だ。手を伸ばせば触れられそうな距離でマイスキーのチェロが鳴り、ビリビリと全身が振動する。すでに夜中の1時を回ったところだが、こんな深夜でもマイスキーは一切手抜きをしない。意識がどこかに飛んでいってしまいそうな、地鳴りのようなビブラートに感動した。彼のチェロの存在感とエネルギーはすさまじく、この音楽家の楽器の中にはオーケストラのチェロセクション30人が蛇腹になって収まっているのではないかと思う程だ。もっとも狭い会場で感じる魂のこもったその息遣いにも驚嘆した。

2024.02.13(火)
著者=藤田真央