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自分を消し去ることの甘美さを、わたしは知っていた

 病む母に身をうつしながら自己消滅の欲求に苦しんでいた小学生のころ、わたしは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のカムパネルラになりたかったと前述した。人を救うために、それもいじめっ子のザネリを救うために、川の底に沈んでしまったカムパネルラになりたかったのだ。あるいは、カムパネルラが鉄道のなかで言及する、自分を燃やすことで宇宙を照らすさそり座の星に。自分を消し去ることの甘美さを、そのころからわたしは知っていたのだろう。自己を燃やして漆黒の闇を赫々と照らすさそり座のイメージに囚われていた。

 実は、賢治のことは最初から好きだったわけではない。小さなころに図書館で読んだ〈よだかの星〉や〈注文の多い料理店〉などの童話に、何かおどろおどろしい汗くさい「匂い」のようなものを感じて、正直遠ざけていたようなところもある。

 しかし大学生のとき、〈春と修羅〉のはじまりを読んだとき、雷に打たれたようになってしまった。

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です

 まさにわたしは、「私」をそのようにとらえていたのだと思う。わたしは、確固たる存在ではなく、現象としてそこにある。この輪郭線に囲まれた「私」という殻は、外から見れば一見固まっているようだけれど、いつでもその内部は燃えるようにうごめいており、外部の世界との交流や交換を起こしている。

 それはまさに現象と呼びたくなるもので、炎は酸素がなければ燃えないし、海は月の引力がなければ波立たない。雲は水蒸気が太陽によって温められ上昇気流とならなければ生成しない。

 同じようにわたしの身体中では、毎時毎秒すがたを変える細胞や血流、遺伝子や菌、果ては人間を宿主としたウイルスにいたるまで、見えないもの、感じられないものが死滅と生成を繰り返している。意志とは関係なく、知らないあいだに息を吸い、吐き、この大気のなかにわたしを交じらせ、わたしのなかに大気を取り込み、それを循環させて、わたしが成り立っている。

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2024.02.13(火)
文=中村佑子