この記事の連載

『マザリング 現代の母なる場所』(集英社)で心身のバランスを崩しがちな母のことを綴った映像作家の中村佑子さん。自身もヤングケアラーだったが、ヤングケアラー当事者の本当の感情がどこか置いてきぼりであるように感じていたという。中村佑子さんがヤングケアラーの内的時間について綴ったのが『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』(医学書院)だ。執筆にかけた二年を経て、最後に別の風景が見えてきたという中村さんの同書より、一部を編集の上、紹介する。


 この本では、病の家族に付き添う時間とはどういうものなのか、つまりヤングケアラーの内的時間とはどういうものかを書いている。葛藤と喜び、苦しみと快楽、引き裂かれてゆく感情の双方の極を書きたいと思った。さらに病気を抱える家族のケアといっても身体的な疾病ではなく、とくに精神疾患に限って考えてみたい。

 わたしはまず、母に付き添って過ごした精神科病院で出会った女性たちのことから書きはじめ、前作と同じように当事者への聞き書きとして進めていった。しかしそこには、ヤングケアラー特有の困難があったのだ……。その詳細は本論を読んでいただきたい。

 筆をとったり、筆を置いたりするわたしの右往左往、迷いともども、すべてをここに書いている。わたし自身の感情や思考のドキュメントとしての部分も大きいが、その道行きの困難さも含めて、書くということが孕む問題に向き合うことだったのだろうと、いまはそう思っている。

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 何から語りはじめればよいだろう。

 もう十年以上前になる。わたしの母は、ある精神科病院を受診し、主治医の先生の顔を見た途端、その場で倒れ意識を失った。

 母に付き添い、わたしもしばらく入院病棟に寝泊まりした。そこは女性だけの病棟で、実にさまざまな患者さんが入院していた。いや入院ではなく、そこに住んでいるといっても過言ではない人が多くいた。この病院で出会った彼女たちのことを、ときおり強く思い出す。

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 病院での生活にも慣れてきたころ、喫煙室でひとりの女性と出会った。

 そのころまだわたしはときおりタバコを吸っていて、喫煙場所は一階の正面の門が見えるテラスのひさしの下だった。そこでよく見かける四十代くらいの女性がいて、彼女はわたしたちと同じ階に入院していた。

 ときたまタバコを吸いながら、携帯で誰かと小声で話し込んでいる。そこから推察するに、子どもがいるのだと思う。しきりに誰かを心配しているが、相手はそっけないのか会話はいつも一方通行で、すぐに途切れ、やがて何が終わりの合図だったのかわからないきっかけで、唐突に電話は切られた。彼女はあきらめのような、うつろな表情でまたタバコを吸いはじめる。

 彼女は鬱で長期入院していると言っていた。

 家族の事情はそれ以上わたしは知らないし、聞くこともなかった。ここで出会う者同士、親しくなっても、お互いにあまりに複雑な事情が折り重なっているので、心のうちをすべて話すということにはならない。話し出すと、危うく保っているバランスが決壊してしまう恐れも感じていた。たぶんそれを聞くには、あと一年、いや何年もかかるのかもしれない。

2024.02.13(火)
文=中村佑子