この漢文調の書き言葉は話し言葉とは関わりがない。したがって時代による変化を受けることがない。時代に影響されないという意味で書き言葉としての漢文訓読調の文体は息が長く、近くは戦後になるまで用いられていた。昭和時代の法律の文章、聖書の訳文などをみてみると相変わらず漢文訓読調で書かれていたことに気づくはずだ。

 私たちがいま明治時代の森鴎外や夏目漱石などの小説を読めるのは、言文一致運動があったおかげである。明治時代になって西洋文学に学んだ知識人たちは、江戸時代の戯作調の文体や文語と呼ばれる漢文訓読調の文体とは異なる、もっと日常語に近い、いわゆる口語体の文体を模索し、それによって新しい小説を生み出していった。

 同じようにして平安宮廷社会では、書き言葉の漢文体ではなく口語体にあたるやまと言葉による文体をつくりあげたわけである。言文一致をめざす運動それ自体はたしかに明治時代のものではあるが、平安時代にも口語体による物語の文体があらたにつくられたのであり、言うなれば平安時代にすでに一度言文一致の動きがあったのである。口語体だからこそ、物語には、平安貴族たちの日常の声の調子、会話文などが取り込まれており、私たちはいまなお平安時代の人々の声の残響を聞くことができる。

女の名前

 ところで紫式部については、名前も生没年もわかっていない。紫式部というのは宮中での女房名で、和泉式部などと呼ぶのと同様、父親か兄弟が式部省(1)の役人だったことから付けられている。紫は『源氏物語』の登場人物の紫の上にちなんでいるらしい。『栄花物語』には「紫」と言及されている。

 当時は貴族であっても、天皇の后や母にでもならないと女の名前が記録されることはなかった。たとえば『蜻蛉日記』の作者が藤原道綱母と呼ばれ、『更級日記』の作者が菅原孝標女と呼ばれているのは、息子や父親の名前しか記録に残っていないためである。記録に残らないというだけで、むろん女たちにも名前はあった。男女ともに幼名と成人してからの名前と二つ持っていることが多かったらしい。『落窪物語』で継母にいじめられている女主人公を助ける女童(2)があこきと呼ばれ、『源氏物語』で紫の上の幼い頃の遊び相手となっているのがいぬきと呼ばれているように、あこき、いぬきなどは童名である。その後、成人の際に新たな名がついたはずだが、女房として仕えたときには、親兄弟の役職に由来して中将の君、中務の君などと呼ばれて、結局、どのような名前がつけられたのかはわからない。

2024.01.12(金)