物語のあたらしい文体

 平安宮廷社会は中国を範としていたので、学問とは漢学すなわち漢文で書かれた文献の読み書きができ、漢詩文をつくることができるようになることだった。したがって書記言語として第一には漢文があり、平安宮廷の公式文書は漢文で書かれていたのである。それは男性官人の職務であり、公式文書ではない私的な日記においても男性が書く文書は漢文で書かれていた。たとえば藤原道長が残した日記『御堂関白記』も、同時代に活躍した官人藤原行成の日記『権記』などであっても、すべて漢文体で書かれているのである。漢学は男性官人だけに入学の許された大学寮などで勉強するものだったので、女性には学習機会がないかというと、そういうわけでもない。

 紫式部の父親は漢学を専門とする文人で、宮廷社会で漢文を教える立場にいる人だった。紫式部の家にはたくさんの漢文の本があり、大学寮などに通わずとも多くのことを学べる環境にあった。それは紫式部に限った話ではない。当時の貴族階級の女たちには程度の差はあったにせよ、そのようにして家庭で漢学を学ぶことが可能だった。宮廷では宴会の余興として、男性官人たちが漢詩文を作ったりしていたが、そこに女性の作もあることが知られている。

 天皇の勅命によって作られた和歌集を勅撰和歌集と呼ぶが、実は、最初に作られた勅撰集は漢詩文集だったのである。それに対して、やまと言葉によるやまとうたである和歌をまとめようという気運が起こり、最初に作られたのが『古今和歌集』だった。以後、勅撰集といえば和歌集をさし、連綿と勅撰和歌集がまとめられるようになっていく。このようにそれまで漢文という書き言葉で行われてきた漢詩という文学活動が、いわば口語であるやまと言葉による和歌に置き換わっていく波に並行して、やまと言葉で書かれた物語作品が陸続と現れるようになるのである。

 ただし公式文書が漢文で書かれること自体が廃れたわけではなかったので、平安宮廷社会は、書記言語として、漢文の文体と和歌や『源氏物語』などの物語を書くためのやまと言葉の文体との二様の文体を使い分けていた。

2024.01.12(金)