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「マイルスはそのサウンドを求めていたからね」

 この時期、キースはポール・モチアン(ドラムス)、ゲイリー・ピーコック(ベース)との自分のトリオでも活動をしていた。

「キースは自分のバンドも持っていたが、両方でやれるようにスケジュールを調整していたから、問題はなかった。チックは、オレに直接は何も言わなかったが、キーボードが2台というのを、あまり気に入ってなかった様子だった」

 チック・コリアは1941年マサチューセッツ州チェルシーの出身。マイルスのバンドにチックとキースがそろって在籍したとき、チックは29歳。キースは25歳だった。

 マイルスのバンドで、キースは主にエレクトリック・ピアノとオルガン、チックは主にアコースティック・ピアノとエレクトリック・ピアノを演奏した。後にキースがソロ・ピアノの公演を続け、チックが『リターン・トゥ・フォーエヴァー』で世界的なフュージョンのブームを牽引したことを考えると意外な役割分担だ。

「バンドに入る前にキースがどんな演奏をしていたかは知っていたし、どんな方向に進めるのかもわかっていた。バンドに入る前はエレクトリックを嫌っていたが、オレのバンドでやるうちに奴の考えも変わった。そして、いかにもっと極限に挑戦し、異なったいろんなスタイルで演奏するかを、学んだんだ」

 マイルスはそう振り返っている。

「ぼくはエレクトリック・キーボードは弾きたくなかったけれど、マイルスはそのサウンドを求めていたからね」

 このようにキースのほうは『インナービューズ』で語っている。

「マイルスは、以前のバンドよりも、もっとファンクなものを求めていたから、僕はその役に立てるという自信はあった。チック・コリアがファンクは得意じゃないのを、マイルスは知っていたと思う」(『インナービューズ』より、以下同)

 気が進まないながらも、キースはエレクトリック・ピアノを演奏していた。マイルスへのリスペクトで、彼は彼自身を納得させていたのかもしれない。

 キースはエレクトリック・ピアノについて、重さの感覚を失うと語っている。

「チック・コリアがエレクトリック・ピアノを弾くようになった時も、彼本来のタッチを失ったんだ。60年代から70年代の初めまでは、彼はタッチを持っていた。ピアノのタッチをね。しかし、チック・コリアがエレクトリックに転向した途端に、タッチを失った。エレクトリック・キーボードでは、重さや重力を表現することができないからだ。どうしても表現できないんだ。電気楽器に触れている間に、タッチ、重力、重さを忘れてしまうんだ。ずっと忘れた状態のまま、それがしばらくの間だったとしても、もう思い出せない。ハービー・ハンコックも同じように失った」

 重さの感覚を失うことを恐れたのか、キースは2年ほどしかエレクトリック・ピアノを演奏していない。

神舘和典

1962年東京都生まれ。学生時代の1983年から執筆。その後出版社勤務を経て、再びフリーランス。1998~2000年、ニューヨークを拠点に音楽取材。著書に『音楽ライターが、書けなかった話』『新書で入門 ジャズの鉄板50枚+α』(新潮新書)、『上原ひろみ サマーレインの彼方』(幻冬舎文庫)など。

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2023.12.21(木)
文=神館和典