このシーンでは、様々な種類の先入観と実感が渾然となって様々に飛び交っており、そこに「黒人女性」という単一のレッテルではない広がりが自然に浮かび上がってくる。またその中で、ドリューは父が白人だったからこそ、黒人であるというアイデンティティにこだわっていることも見えてくる。

 

「自然」をコントロールすることの難しさ

 映画がしばらく進むと、今度は白人男性たちが黒人女性がいかに性的に奔放かという話をするシーンが出てくる。それそのものは典型的なものいいだが、そこである登場人物が「お前の母親も黒いだろ」といわれて激昂するのである。彼いわく「おふくろは、色は黒いがイタリア人だ!」と。

 ここにも単に「白人」と「黒人」の二分法ではとらえきれない、細かなグラデーションをもった“実感”が、実生活の中に生まれる暴力的な境界線の背景にあることが見えてくる。こういうのは、その町に人が集まり、住み、生活を積み重ねてきた結果生まれた「自然」なのだ。それをコントロールすることは難しい。

 フリッパーとアンジーの恋の行方に大きく影を落とすエピソードが2つある。

 ひとつめはフリッパーが実家にアンジーを連れて両親に会わせるくだり。ここでフリッパーの父は、イタリア系のアンジーがクリスチャンであることを確認すると、自らが厳格なバプテスト派の信者であると語る。さらに「不貞を働いた息子と食卓を共にすることはない」と食卓を立つ。

 ふたつめはその後、フリッパーとアンジーの2人が夜道で、おふざけから軽い取っ組み合いになるシーン。この時、周囲の住民が即座に警察に通報し、フリッパーは強姦犯として逮捕されそうになる。「自分たちは恋人だ」と主張し、警官に怒りをぶつけるアンジーに、フリッパーは「そんなことを言うと自分が撃ち殺されるからやめてくれ」と叫ぶ。

 イタリア系とアフリカ系というのは、単に人種的に異なるだけではない。都市生活の中で積み重ねられてきた「家族の信仰」という生活のレイヤーや「社会的に向けられる視線の差」というレイヤーもまた異なっており、そうした「人が産んだ自然」こそが、2人の間に潜む距離を実感させるのである。

2023.12.25(月)
文=藤津亮太