手紙の日付は2008年1月26日。二人の交友は筑紫がメインキャスターを務める「筑紫哲也NEWS23」のエンディングテーマ曲を1991年に提供したことから始まった。筑紫は2007年末の「クリスマスの約束」を「素晴らしいショーでした」と書き、殊にさだまさしと共作した「たとえば」に感銘し、必ずCD化してくださいねと書いている。筑紫はこの時、肺がんによる闘病中で、「NEWS23」はすでに降板していた。これに対する小田の返信のなかに、こんな文章があった。

 番組の感想いただいてびっくり、感激しました。人生の中でこんなふうに心が浮き上がるようなうれしい瞬間というのは滅多に訪れません、ほんとうにありがとうございます。辛い想いをして頑張った甲斐があるというものです。人には頑張ればきっと誰かが見てくれているんだからと言ってきました。でも自分のこととなるとどうにも挫けそうになります。これでまた強い声でみんなを説得できそうです。

 挫けそうになった時、きっと誰かが見てくれている、小田自身がそう思って自らを励まし生きてきた、そんなことがわかる手紙である。同じように、この歌を聴き、励まされてきた人は少なくないだろう。

聴く者の辛さに寄り添う

 人に寄り添い、人の心に沁みるメッセージを込めた歌を、小田はある年齢を経てからつくるようになったという印象があった。そう言うと、小田はこう答えた。

「いや、若いころから、俺は結構、こういう曲はたくさん書いてきたつもりなんだよね。頑張っても、頑張っても、うまくいかないのは、みんなもそうなんだろうなと。でも若いころは、それがうまく書けなかったばっかりに、届かなかったんだろうな」

 こう言って、小田は「秋ゆく街で」という曲を知ってる? と、訊いた。

 

「秋ゆく街で」は、1974年10月26日、まだ二人オフコース時代、当時としては破格に大きな会場となる中野サンプラザホールでの開催を決めた最初の「オフコース・リサイタル」のタイトルであり、この日のために小田が作った楽曲である。約50年前に作った楽曲ながら、小田はその場で瞬時にその詞をスラスラと諳んじた。思い入れの深い歌だとわかる。この「秋ゆく街で」と「東京の空」が、小田のなかでは、繋がっているようだった。

「秋ゆく街で」は、「僕の生き方で もうしばらくは 歩いてゆこう」と、時に挫けそうになる自分を励ましている。そうやって一つ一つ乗り越えて生きてきた地続きに、60歳になる小田がいて、「東京の空」が作られたということだろうか。ときに小田の歌が聴く者の辛さに寄り添っているように感じられるのは、小田自身がその不安や苦しさに向き合い、安易な道を選んでこなかったからかもしれない。

2023.11.26(日)
著者=追分日出子