『汚れた手をそこで拭かない』(芦沢 央)
『汚れた手をそこで拭かない』(芦沢 央)

 覚めたくてもなかなか覚めることができない夢を渡り歩くような読み心地だった。一話、一話、嚙みつぶすたびにはっきりと、顔をしかめたくなるほど苦い。しかし咀嚼するにつれ、奇妙な甘さと後を引く香りが、苦みの奥から立ちのぼる。

『汚れた手をそこで拭かない』には五つの短編が収録されている。ジャンルとしてはミステリーに分類されるが、いわゆる密室トリックやアリバイトリックなど、派手な仕掛けとしての謎が出てくるわけではない。むしろこの本で描かれるのは日常で起こる小さな謎、その気になれば見ない振りだってできてしまう、調理中に指を刺す野菜の棘くらい些細な謎だ。

 そんな些細な謎を巡る話が、幾重にも封鎖された密室や、逃げ道のない狡猾な殺人計画よりもよっぽど、怖い。追い詰められ、息苦しさに叫びたくなる。作中に監禁の描写は一度もないのに、視点人物とともに物語を追いながら、なんども「ここから出たい!」と強く思った。

 第一話「ただ、運が悪かっただけ」では、ある夫婦が描かれる。妻は死に瀕しており、そんな自分の境遇を嘆いている。無口で人のいい夫は、過去の忌まわしい記憶に囚われている。妻は幼い頃からどんなものごとにも意味づけをしたくなる理屈っぽい性格で、五十代半ばで末期癌の診断を受けた自分の人生についても、こうすればよかったのだろうか、ああすればよかったのだろうかと思いを巡らせることをやめられない。そんな彼女が、残される夫にせめてできることはないかと持ちかけた提案により、夫の過去へと通じる扉が開く。

 謎が解けて辿り着いた言葉により、罪悪感に囚われていた夫だけでなく、妻自身もまた、自らを苛む葛藤から出ざるを得なくなる物語の構成が、あまりに精緻で美しい。

 第二話「埋め合わせ」は本書の中でも特にスリリングで恐怖をあおる話だ。職場や学校で大きなミスを犯し、それを隠したい、ごまかしたい、と一瞬でも思わなかった人が果たしているだろうか。プールの水を流しっぱなしにしてしまった学校関係者のニュースは毎年のように報道されるが、そんなニュースに接するたびに本作を思い出すほど、怖い。なんとか窮地から抜け出そうと様々な工作を試みる主人公・秀則の内面は、閉鎖空間に監禁されたデスゲームの参加者のような切迫感に満ちていて、読んでいるこちらまで不安で押しつぶされそうになる。また、過去の苦々しい失敗が次々と思い起こされ、冗談抜きに肝が冷える。

2023.12.01(金)
文=彩瀬 まる(作家)