惚れ惚れするような熟達の筆に酔いしれた。市井を描いた昨今の時代小説は数あれど、『しのぶ恋 浮世七景』は特筆すべき一級品である。
説明するまでもないが、諸田玲子は一九九六年にデビュー。「お鳥見女房」シリーズ、「あくじゃれ瓢六」シリーズで人気を博し、二〇〇三年には、短編集『其の一日』で、吉川英治文学新人賞を受賞するなど注目を浴びた。一方で、『奸婦にあらず』(新田次郎文学賞)、『四十八人目の忠臣』(歴史時代作家クラブ賞作品賞)、『今ひとたびの、和泉式部』(親鸞賞)など長編小説を数多く世に送り出す。
デビュー以来、着実に培ってきた作家の業(わざ)に息を呑んだのが、『森家の討ち入り』(一七年刊)だった。吉良邸に討ち入りした赤穂浪士四十七人の中に、隣国である津山森家の旧臣が三人もいたのだ。なぜ彼らは加わっていたのか、史実をもとに絶妙な手際でその謎に迫り、なおかつ武士の矜持と男女の哀歓を描いて、万感迫る物語であった。
今また息を呑んだ出会いが本書である。いや、息を呑むと言うか、悠揚たる筆にしびれた。広重、春信、北斎、歌麿らの浮世絵から想を得た短編七本を収録している。単行本が刊行された二〇二〇年、文藝春秋の「本の話」のインタビューで、次のように話している。
「浮世絵と向き合って分かったのは、私が作家として書きたいのは、人の心模様だということです。心の奥深くにひっそりと抱えている“しのぶ恋”なんです。この一冊は、経験を積み重ねた今だからこそ書けた物語だと思っています」
この言葉通りの物語が並ぶ。
一話目の「太鼓橋雪景色」は、桜田門外の変が起きた朝から幕が開く。変事を耳にした夫の狼狽を、ほんの一瞬の発言で鮮やかに表し、片や妻は音もなく舞い落ちる雪に吸いこまれそうになって眩暈を起こす――。流れるような導入部に続いて妻が過去を回想し、若き日の恋が哀惜の念をもって語られる。怪我した老人にかかわり合いたくない往来の人々の姿など、随所にはっとする描写が光り、一気に本書に引き込まれた。冒頭に置くにふさわしい一編だ。人生はいくら望んでもうまくいかないことがある。失望し、それが怒りに変化するならまだましで、あきらめと哀しみを抱えてしまうこともある。こんなことをさらりと語り、成熟の境地を感じさせる。
2023.11.29(水)
文=内藤 麻里子(文芸ジャーナリスト)