人が認識したくないと願う自分の姿だけでなく、他者の目にはさらに醜さを感じさせる姿がある、と突きつける展開にも圧倒された。人は自分のことがわからない。その恐ろしさを煮詰めた一編だったと感じる。
第五話「ミモザ」は気弱でものごとに確信を持てない料理研究家の主人公が、狡猾で威圧に慣れた元恋人につきまとわれ、生活を脅かされる話だ。主人公の気弱さ、他者に断言をされると自分の思考がたやすく揺らぐ危うさに、終始ハラハラさせられる。物語が進むにつれ、脅迫者である男だけでなく、事態を解決する能力をまるで持たない主人公も、日常の形さえ整っていれば内側の問題には関与しようとしない夫も、みな等しく不気味に思えてくる。
「私は悪いことなんてしてないのに」なぜこんなにひどい目に遭わせるのか、と訴える主人公に対する、元彼の返答がとても明快で正直だ。恐らく唯一、彼が本心を語っている言葉だろう。
「悪いことをしたから悪いことが起きるとは限らないんだよ」
なんどもなんどもこじれた状況を解決しようと思考を巡らせ、言葉を選ぶのに、主人公は脅迫者を叩き出すことができない。主人公は確かに「悪いことなんてしてない」。けれど、彼女は彼女の性分から出られない。物語としてありがちな、なんらかの都合のいいきっかけや気づきをもって、彼女がそんな自分を変えていく――なんて展開には絶対にしないところに、人間のリアリティを追求する作者の凄みと恐ろしさを感じる。芦沢央さんは決して人間を美化しない。描かれるのはいつも弱く不完全で、容易に変わることのできない、醜さを抱えて生きていくしかない私のような、隣人のような、生々しい人たちだ。
汚れた手を、どこで拭けばよかったんだろう。本書を読み終えて、まずそんな問いが浮かんだ。
苦く出口のない五つの部屋。物語に出てくる人々の、頭の中の狭い部屋。罪悪感や恐怖、都合のいい忘却と期待、抜け出せない性分。それ以外にも様々な、読み手が思わず「わからないでもない」と感じてしまう汚れの部屋に囚われた人たちは、いったいどこで、汚れた手を拭けばよかったんだろう。衣服の背面になすりつけるでもなく、身近な他人になすりつけるでもないなら、どこで。
もちろん、手を洗えたら一番よかったのだろう。流し台に立って蛇口をひねり、流水に手を浸して、石鹼を使えたら。しかし彼らが囚われた部屋に流し台はない。そして「表沙汰にしたくない」と思った瞬間、部屋の出口は塗りつぶされる。彼らは自ら部屋の出口を塞いだのだ。
そもそも現実において、本書で描かれた汚れを洗い流せる流し台なんて、存在するんだろうか。生きている間に、ほんのわずかな不運で、油断で、過ちで、傲慢で、手に吸いつく汚れ。洗う場所のない汚れ。
自分の手を思わず見つめ、そして部屋の出口を確認したくなる。六つ目の物語がすでに始まっているのではないかと、恐れながら――。
汚れた手をそこで拭かない(文春文庫 あ 90-2)
定価 770円(税込)
文藝春秋
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2023.12.01(金)
文=彩瀬 まる(作家)