戦後日本のポピュラー・ミュージックで京都がクローズアップされた最初期の出来事は、関西フォークに関連してのことだろう。

 アメリカでのフォーク・ムーブメントを受けて、日本でも1960年代半ばにフォーク・ミュージックの人気が高まっていたが、〈あの当時にフォークやってたのって、みんな、成城大学とかのお坊ちゃんたちが多かった〉(加藤和彦、前田祥丈著、牧村憲一監修『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーブックス刊)。

 こうした音楽は「カレッジ・フォーク」と呼ばれていたが、総じてふんわりした内容であり、プロテスト・ソング、メッセージ・ソングという本来フォーク・ソングが持ち合わせていた要素は薄い。そのカウンターとでもいうべきメッセージ性と実験精神に富んだ音楽を展開したのが「関西フォーク」と呼ばれるバンドやアーティストだった。

 高石友也(現・ともや)、中川五郎、高田渡、遠藤賢司、岡林信康ら、このシーンの中心となった面々が京都に集まり、また龍谷大学の学生だった加藤和彦のグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」は「帰って来たヨッパライ」のヒットで一躍その名を知られるようになった。東山の円山公園音楽堂を筆頭に京都市内でさまざまなフォーク・コンサートが開催され、その熱は1960年代終盤の東京にも伝播し、おりからの学生運動や反戦運動と結びついていった。

関西フォークの精神は健在

 自身の境遇とそれを生み出した体制への批判、反戦、平和希求などのメッセージや、新しい表現を追求する姿勢を有する関西フォークが、当時の学生たちに共感をもって受け入れられたのは想像に難くない。

 京都市内に大学が多いのは寺院の集積から仏教系大学が多数開校されたのと、〈明治維新に伴う東京への遷都で京都経済の衰退が進む中、再興の柱に教育を据えたことも大きい〉(読売新聞大阪本社経済部編『解剖 京都力─5つの視点で探る強さの秘密』淡交社刊)。そうしてできた学生街の側面を背景に、京都では新しい音楽が多数の若者を魅了していったのだ。

 大学と音楽の繋がりでいうと、1970年代から現在まで、フォーク、ロック、パンクなどさまざまなジャンルのライブが行われている京都大学西部講堂は重要な施設のひとつ。また、少し時代は下るが、くるりやキセルを輩出した立命館大学の軽音楽サークル(オリジナル曲の制作、演奏が中心)「ロックコミューン」の存在もよく知られるところだろう。関西フォークの精神は、学生による自治やインディペンデントでオルタナティブな姿勢に受け継がれているのである。

2023.11.27(月)
文=青野賢一

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