「不妊治療中って、自分自身も、夫婦としても、いろいろなことを考えます。その時間が、ただ苦しくて辛いだけのものであったら、やっぱり悔しい。大変なことはたくさんあるけど、同時に楽しいことや嬉しいことも起こるのが人生ですよね。この小説も、暗いものとして世に出したくなかったんです。その人が、その人なりの幸せを見つけるまでのことを、すこしでも描けたらと思っていました」
日々、顕微鏡を覗きながら、受精卵と向き合う幸。そんな幸自身も、出自に葛藤があった。父ではない第三者の精子提供による人工授精(AID)で生まれた子供だったのだ。その事実がうまく受け入れられず、長崎の家族ともぎくしゃくしている。そんななか、新しく赴任してきた医師の花岡幸太郎に、幸は不思議な懐かしさを感じる。親子ほどの歳の差の2人だが、聞けば同じ九州出身で――。
幸の出自の秘密も本作の読みどころであり、大事なテーマになっている。巧みな構成にぐいぐいと引き込まれるが、なによりもその筆致は細やかで、誠実だ。
「これまでは自分の経験をもとに書いてきたところがあったのですが、それもいつか限界がくるはずで。私の一番の目標は、細く長くでもいいので、10年後にも『あ、本山聖子って聞いたことある』と何人かの人に言ってもらえるような作家になることです。世の中で必要とされているものや、訴えかけていく意味のあるものを、自分の言葉で、物語として、届けていけたらいいなと思っています」
もとやませいこ/1980年、鹿児島県生まれ、長崎県育ち。東京女子大学卒業後、児童書・雑誌の編集に従事。27歳のときに患った乳がんの闘病を機にフリーランスに転向。2017年「ユズとレモン、だけどライム」で小説宝石新人賞を受賞。2020年『おっぱいエール』でデビュー。
受精卵ワールド
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2023.10.27(金)
文=「週刊文春」編集部