歴史上の偉人は往々にして現代の価値観ではとんでもないことをやっていたりするもので、不倫も浮気も当たり前、そんな理由で斬っちゃうの?というような人殺しをしていたりする。水戸光國も若い頃、傾奇(かぶ)いたあげく辻斬りをした史実がある。

 だが、冲方先生は光國の黒歴史をさけるどころか、この物語のキーとなる出来事として膨らませ創作の翼を広げて描いている。

 私が何よりまいったのは、その創作者としての姿勢に対してだった。

 結果、正しいだけの光國より、苦悩を抱えた光國はより厚みのある血の通った人間として物語の中で存在している。人はまちがいを犯すから人なのだ。

 これは脚本を書くには覚悟がいる。安易に視聴者に媚びてぬるい話にしてはならない。

 そう心に決め脚本を書き始めた。そして、ならばいっそ光國と了助の関係はさらに深く温かく、疑似親子のようにできないかと考えた。鬼河童と呼ばれたギラギラした了助を人らしく子供らしい姿へと導く光國。二人の関係が深まれば深まる程、視聴者は「その時」が来るのを恐れる気持ちと共に、「その時」をどう迎えるかが気になるはずだ。

 一方、この複雑なキャラクターである光國の心情を、映像表現では小説のように文章で説明できないことには頭を悩ませた。モノローグで心の声を語るか、心情を吐露する相手が必要になる。モノローグで自分語りをする女々しい光國はあまり見たくない。

 私はお気に入りの人物・泰姫(たいひめ)のエピソードを膨らませることにした。

『剣樹抄』を読んでいた際、もっと光國と泰姫、二人の会話が読みたい、二人のシーンが見たいと思うほど泰姫の柔らかな強さが大好きになってしまったのだ。

 時代劇の中で女性を色濃く描こうとすると、現代的な価値観の強い女性になってしまったり、あるいは男性に尽くす、ある意味男性に都合の良いキャラクターになりがちだが、冲方先生の描く泰姫は、豪胆な光國をふんわりと包むように、時に知らぬ間に導いていく。いわゆる天然でいて聡い、実に魅力的な女性なのだ。そんな泰姫ならば光國の苦悩をそれとなく聞き、柔らかく受けとめてくれるに違いない。

2023.10.27(金)
文=吉澤智子(脚本家)