そう暴走族の子に話したら、総長さんがおもむろに「はい、そのお化け、僕です」と言うのです。「ええっ、どういうことや。私より怖い話したらあかんで」と言ったら「いや、違うんです。僕もお化けみたいな人間やから、その気持ち、よくわかるんです」と。両親にも誰にも顧みられず、幼少期から「ただいま」と言っても「おかえり」が返ってきたことがない。でも、バイクで爆走していれば警察が追いかけて来て「危ないぞ」と声を掛けてくれる。そこで初めて「生きているってこういうことや」と実感を得たのだと。

「お化けな僕らは、どうしたらいいですか」――その言葉を聴いた時に、ああ、これはもうお説法になっているじゃないかと感じたのです。それからは一緒に本山を掃除して回ったりしましてね。見知らぬおばあさんに「えらいね、このお金でジュースでも飲み」と声をかけてもらったこともありましたけれど、彼らは「ありがと。でもな、ここでお金もらったら徳が消えるからあかんねん」と笑顔で返しておりました。自分の存在意義を、暴走族という自分本位な行動で示すのではなく、人に喜ばれることを通じて認められるようになったのです。

 彼らに限らず、怪談好きな方は、どこかに孤独を抱えておられます。誰しも最後は1人で逝かなくてはいけませんから、その寂しさや恐ろしさを少しでも和らげるために死後の話を求めるのでしょう。実はお釈迦様も「生老病死」、つまり死への恐れがあり、死ぬ前にすべきことは何かを考えられました。その面で怪談と仏教は非常に親和性があるのです。

 

「死後の世界はありますか」余命3週間の医者はか細い声で…

 以前、とあるお医者さんに「人は死んだら無になる。三木さん、在りもしない話を語るもんじゃないですよ」と言われたことがありました。それからずいぶん経って、突然お電話をいただいたのです。か細いお声で「がんになりまして、症状からいって余命はあと3週間ばかりでしょう」とおっしゃる。そして「死後の世界は本当にありますか」……そう訊ねてこられたのです。驚きましたが「私は無にならないと思っています。お経にも、そう書いてあります」とお答えしました。するとどこかホッとしたお声で「そう説き続けてください」と。その2日後、容態が急変して亡くなられたそうです。

2023.08.26(土)
文=「週刊文春」編集部