この記事の連載

そして「〇〇〇〇施設」としての中村倫也へ進化?

――パブリックイメージというか。

 そうですね。芸能界の中と、外の両方においてだんだんと出来上がっていったように思います。それによって、①(俳優)と④(素)がよりはっきり分かれていきました。そこから作品の宣伝などもするようになってバラエティに出たり、雑誌のインタビューでしゃべる機会が増えていくと「クリエイティブなことだけじゃダメだし、かといってあまりにも素の自分だとエンタメにならない」と、読み物・見世物としてとしての面白さを追求する②(取材・テレビのとき)が①(俳優)と④(素)の間に生まれたんです。

 その後、エッセイなどを書くようになって、②(取材・テレビ)よりは④(素)に近い部分だけど、とはいえ人に見せるものですからどこかしらに打算というか思考は入るわけじゃないですか。④(素)だけだと人様に見せるものは何も生まれませんから。そういう流れで③(文章を書くとき)が生まれて……という風に分化していきました。

 もちろんどれも自分だし、明確な差異というよりも出力のチャンネルがちょっと違うくらいの感じです。オーブンレンジがオーブンとレンジを使い分けられたり、テレビデオがテレビとビデオの両方を兼ねているイメージに近いです。そうして、中村倫也という複合型アミューズメント施設が出来上がっていきました(笑)。

――エッセイ集「THE やんごとなき雑談」の中には、急激に忙しくなっていくなかでの“変化”に戸惑うさまも綴られていましたが、そうしたなかでの必然の分化でもあったのでしょうか。

 「自分が忙しいから分ける」というネガティブな意味での分離・分裂では全くないです。それこそ「THE やんごとなき雑談」に通ずるかもしれませんが、自分で言うのもおこがましいですが「どの出力をしたら各媒体で楽しんでもらえるか、喜んでもらえるか」が自分の思考のメインです。それが回りまわって次の仕事につながることもあるでしょうし。

――楽しんでもらうための最適化、ですね。

 そうそう。そういう形です。

――中村さんは常々「準備期間中や稽古や撮影をしているときのモチベーションは、観た人にどう驚いて、喜んでもらえるか」と語っていらっしゃいます。

 やっぱり、観てくれる人がいないのにやっても意味がないですからね(笑)。昔は舞台に立っても客席が半分以上空いていることもありました。でも、もう半分はお客さんが埋めてくれている。であればそこにいる人たちに向けて一生懸命やるのが当たり前だし、モチベーションにもなります。

 「誰も見てくれないのにやる」というのは、仕事をするうえでの「こんなことをやっています」という資料作りであれば意味があるかと思いますが、やっぱり作品は受け取ってもらって初めて成立するものだと僕は思います。そこから受け取った人たちが想いを拡大していってくれて、その人の中でそれぞれの作品が完成していく。

――「観てもらうための努力」と「良い芝居をする」は、必ずしも出力の仕方が合致するわけではないかなと思います。その辺りはどういうお考えですか? スタンスに変遷があったのか、ずっと変わらないのか。

2023.05.20(土)
文=SYO
撮影=榎本麻美
ヘアメイク=Emiy(エミー)
スタイリスト=戸倉祥仁(holy.)