そこで山田さんが『唄っちゃおうよ』とずっと粘った末に、ギリギリのところで彼女から『唄います』というひと言を引き出したのです。あの子は1度言い出したら聞かないと誰もが思っていたので、みんな『凄い』と驚いていましたが、その熱意に応える真っ直ぐなところも、また彼女の一面なのです。
以前に『セカンド・ラブ』で出演した際には、風邪で喉を痛め、声が出にくいなかで、苦し気な表情で唄い切り、最後は満足のいかない歌唱に涙をポロポロ零したこともあった。その時は担当のディレクターが『奇跡だ。最後の場面だけで今日は救われた。歴史に残る回になった』と興奮気味に語っていたことを覚えています」
松田聖子という存在
「ザ・ベストテン」にとって80年代初期は、松田聖子の登場で、主役の顔触れが次の時代へとバトンタッチする端境期でもあった。
山口百恵は引退を前に最後のスタジオ出演を果たした80年9月25日の放送で、「青い珊瑚礁」で2週連続1位を獲得した聖子に花束を手渡した。それは新旧の主役が入れ替わる儀式のようでもあり、翌年3月26日のピンク・レディーの最後の出演では、ピンク・レディーが唄った後、静岡駅に滑り込んで来た新幹線から降りた聖子が、絶妙のタイミングで「チェリーブラッサム」を歌唱する伝説の場面が放映された。
「ザ・ベストテン」の生みの親である山田にとって、80年4月に「裸足の季節」でデビューした松田聖子は特別な存在だった。
「お母さ~ん!」と涙声で絶叫
2枚目のシングル「青い珊瑚礁」が8位にランクインし、初登場した際に、札幌の仕事を終えて空路で羽田空港に到着する聖子が、タラップから降りて来る場面を生中継するために山田が奔走した逸話は語り草になっている。
風の影響で到着が早まりそうになるや、全日空の広報に「スピードを落として下さい」と掛け合い、強運も味方し、奇跡的にベストのタイミングでの生中継が実現した。
さらに初めて「青い珊瑚礁」で1位を獲得した時には、母親から届けられた手作りのお弁当に感動した聖子が「お母さ~ん!」と涙声で絶叫するシーンが大きな話題を呼んだ。「ザ・ベストテン」を彩る名場面の主役として聖子は欠かせない存在だった。
ファンであることを公言してきた明菜にとっても、松田聖子は常に仰ぎ見る存在だった。しかし、デビューが決まってからの激動の2年は、明菜の内面にも大きな変化を齎していた。10代の無邪気さと裏腹のプライド。それは傍から見れば、聖子への強烈なライバル心の芽生えでもあったのだ。
中森明菜が「聖子さんって強い人だなァ」と…音楽番組のスタッフが明かす「むき出しのライバル心」を垣間見た“瞬間” へ続く
2023.04.24(月)
文=西﨑伸彦