そして選んだ言葉の出し方。つまり話し方。
高峰も好きだった「十二人の怒れる男」という名作映画がある。
父親殺しの容疑で逮捕された十八歳の少年を十二人の陪審員が裁く話だ。状況証拠から見てすぐに全員一致で有罪評決に達すると思えたが、ヘンリー・フォンダ扮する建築家だけが最初から無罪に投票する。「へそ曲がりっていうヤツはいるものだ」と他の陪審員に揶揄されながらも、彼は一つ一つの証拠を粘り強く検証していき、やがて一人、また一人と無罪に意見を変えていく。その時、たまりかねたように一人の老人が自論をがなりたてるように喋り始める。それは人種への偏見、スラム街に住む人間への蔑みなど、あらゆる偏見に満ちた意見だった。すると陪審員たちは壁際の椅子へ、窓辺へと、次々に席を立ち、その老人に背を向ける。「聞いてくれ、あのガキは嘘つきだ、悪党だ、おい、わしの話を聞けよ……」、目の前の席にいた紳士に「やめたまえ。金輪際、あなたの話は聞きたくない」と言われ、老人は力なく席を離れ、隅の小さな机に向かう。席に戻った建築家が「どんな場合も個人的偏見抜きにものを考えるのは容易じゃありません」と語り始めると、皆が席に戻っていき、建築家の言葉に耳を傾けていくのだ。
テレビドラマだったこの作品を名匠シドニー・ルメットが映画化したのだが、このシーンは圧巻であり、言葉というものに内在する人間の根源的な問題を観る者に突きつける。
耳を傾けずにはいられない、目を離すことができない語り口と言葉。講釈師や俳優などが決められた台詞を語る時も当然だが、それが己独自の言葉となった時、その違いが極めて明確に表れるのだ。男であれ女であれ、何歳であれ、どんな職業の人であれ。
声高に多くを語っても人の心を動かさない人、静かなひと言が心を鷲掴みにする人、その違いはどこにあるのだろう?
私は高峰に出逢ってから、高峰が死んだ今でも、そのことを考える。
あの高峰秀子という人の言葉は、どこから来るのか――。
感性か?
「合ってる?」、死んで高峰に再会したら、訊いてみるつもりだ。
まもなく生誕百年を迎える母・高峰秀子に捧ぐ
令和五年 正月
(「あとがき 文庫化によせて」より)
2023.04.04(火)