私は日常生活の場で不快な顔や怒った顔を見たことがない。だから、司馬遼太郎を思い出すときはいつも笑顔であり、その笑顔はユーモアに満ちた会話の雰囲気に包まれて表れる。

 井上先生はその後に開館した記念館の図録に「司馬学校を夢見て」というタイトルで「ここがひとびとのための、たのもしい知の助け合いの場所になり、やがてそれが学校のようなものになることを」と書いてくださった。「私たちの司馬さん」は記念館活動の原点でもあった。

 二〇〇七年の第十一回の「司馬作品の輝く女性たち」は、常日頃から疑問に思っていたことの回答でもあった。ずいぶん以前に「司馬さんは女性が書けない」という評論家の記事を読んだ。「そうだろうか」と思いながら、司馬作品の女性像を思い浮かべた。

  『梟の城』の小萩、木さる、『竜馬がゆく』の乙女姉さん、千葉さな子、おりょう、お登勢、『燃えよ剣』のお雪、『ペルシャの幻術師』のナン、戦国時代の北政所、細川ガラシャ……。それぞれに自立したなんとも魅力的な女性像だろう、と思っていた。自立、という言葉を思い浮かべて、捉え方の視点に相違があるからだろうか、ということに気づいた。

 これらの作品が生まれた時代、一九五〇年代から七〇年代のころの一般の女性像は旧来の捉え方であって、司馬作品の女性像は男女雇用機会均等法の施行などをへて変化した現在の感覚を先取りしていたように思う。それは『ビジネスエリートの新論語』(文春新書)の「女性サラリーマン」で昭和三十年ごろの職場の女性像を描き、恋愛話や陰口にうつつを抜かさず職業に徹するようになれば世の中は一変する、と結んでいることから推測できる。

 シンポジウムでは田辺聖子先生、出久根達郎先生のお二人が、司馬作品の女性像を「おてんば」と捉えて論を展開された。第二回の「竜馬と司馬遼太郎」では永井路子先生が「司馬さんは女性を個性的に書いていらっしゃいます」とおっしゃった。お話を聞きながら、私には司馬作品の女性像が“自立した女性”として浮かんでいた。

2023.02.20(月)