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気まぐれさが何より猫らしい

 作家の方々との打ち合わせの中で――もちろんパターンのバリエーションはさまざまにあるのですが――例えば無人カメラをひとまず置いて、撮った映像を主体に組み立てることもあります。猫というものは、こちらがいざ撮ろうという気配を見せると、ぷいっとあらぬ方向へ行ってしまうものなので、あえて猫にはカメラを向けないようにすることもあるわけです。

 で、そうやってほかのものを撮っていると、何をしているの? という感じで猫から寄ってきたりするものなんですよね。しかも、そういった自然とフレームインしたカットのほうが結果として魅力的になることがよくある。

――その気まぐれさが何より猫らしいですしね。

 そうですね。そういった行動からも、猫というのは実に天邪鬼だなということがよくわかりますけれども、作家の方々との関係性の中で柔軟に撮影していくことは表現にもいい効果をもたらしますし、そうした姿勢が番組の精神にも合っているのだろうと思います。

 また、コロナ禍ゆえの皮肉が生んだ状況としては、緊急事態宣言の時、取材に伺うこともできず、その際は作家の皆さんやご家族にカメラを預けて撮影していただいたりしたこともありました。それはそれでまた違う味わいの映像となりましたね。ほかにも、皆さんに撮影していただいた映像と我々のカメラを組み合わせたこともありますし、その時々の状況に合わせて試行錯誤できたのも、結果としてよかったのではないかと思っています。

――撮れ高を追求せず、猫と作家の皆さんの赴くままに……となると、撮影時間もかなり取られているのですか?

 自然をメインに扱う番組で、例えば取材対象であるダイオウイカを撮るなどであれば多くの時間が必要となるでしょうが、この番組で大切にしているのは作家の方と猫との関係性です。もちろん4~5日はお邪魔することになりますが、作家の方が「今日は出てこないね。やっぱり人見知りするのかな」と言われたら、それはそれで別のシーンが撮れればいいという精神なので、朝から晩までべったりということはなく、常識的な範囲で自然体の撮影を行って24分30秒の番組尺を構成しています。

 また、これまで他の番組を制作してきて思うのは、ディレクターやカメラマン、制作サイドが持っている姿勢のようなものが映り込むこところがドキュメンタリーの怖さと面白さなのではないかなと。例えば、あるドキュメンタリーを撮るとしたら、ディレクターが100人いれば100通りのやり方が当然あるわけです。で、妙な起承転結を作為的に作ってしまうと、そこに縛られてしまうことにもなるんですよね。

 私はこれまで『英語でしゃべらナイト』とか『爆笑問題のニッポンの教養』といった教養バラエティも、企画開発してきたのですが、そうした制作の当時から、視聴者の視点でものごとを見たらどう見えるのか? たまたま映像を目にした方の温度感は? 作り手が前のめりになり過ぎていないか? と自問自答する感覚が、ずっとベースにあったように思います。

2023.02.26(日)
文=高本亜紀
撮影=平松市聖