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プロとして初めての作曲が「哀愁でいと」のB面に

 23歳で留学を終えて日本に帰りましたが、7年間もアメリカで自由を満喫しちゃった後ですからね(笑)。勘当まではいきませんが、実家を出ることにしたんです。昼間は靴屋さんの倉庫で時給500円で働いて、夜は青山にあったグラタンのレストランでウェイトレスをして自活をしていたんですよ。

 でも若いから遊びたいし、いつもお金がなくてヒーヒー言っていたんです。そうしたら、知り合いのキャニオンレコード(現ポニー・キャニオン)の羽島亨(はじま・とおる、田原俊彦や少年隊、石川さゆりなどのヒット曲を手掛けたプロデューサー)さんから、「ちょうど今、曲を探してるんだけど、作曲できる? 書いてみなよ」って言われまして。若いから何も考えずに「はい。書いてみます」って簡単に答えてしまいました。

 歌謡曲の「か」の字も理解していないのに作曲したのです。その1曲目が、トシちゃんの「哀愁でいと」のB面に採用されました(「君に贈る言葉」)。

――ポピュラー音楽をやりたかったわけではないんですね。

 はい、そうではありません。でも、私がやっている現代音楽では、仕事にならないということはわかってもいました。面白いけれど、実験音楽みたいでしたから。ただ、歌謡曲よりはクラシックを聴くような家だったので、全くわけがわからなくて、「こういう曲で、本当にいいの?」って不思議に思っていたんですよ。

 でも採用していただいたし、お小遣いも欲しかったから(笑)、2曲目を書きました。それが「ハッとして! Good」です。今まで飲食店で時給500円で働き、何かをこぼしたら叱られていた子が、スタジオに入ると「先生!」みたいに呼ばれるので、「世の中変だなぁ」と思っていました(笑)。変な運命というか、私の人生ではときどき予測のつかないものが、「ガッ!ガッ!」と向こうからやってくるんですよね。

――1980年に発売された「ハッとして! Good」は田原俊彦さん初のオリコン初登場第一位となり、大ヒットしました。ディスコ・ブームだった当時、ビッグバンド・ジャズ風の曲はとても新鮮でしたが、作詞作曲されたとき、これは売れる、という予感はありましたか?

 そんなことは考えもしませんでした。まだ24歳で、訳もわからず、売れたら売れたで「あら、そう。お金が入ったらいいな」ぐらいで(笑)。当時仲の良かった人たちも、どちらかというとアート志向の人が多かったので、「歌謡曲、書いてるの?」みたいな感じで小馬鹿にされるし。お金は入ってくるけれどあまり人には言えないな、とずっと思っていました。

2022.10.16(日)
文=石津文子
撮影=深野未季