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 歌舞伎座で開催中の「秀山祭九月大歌舞伎」は、昨年に亡くなられた中村吉右衛門さんの一周忌追善公演。吉右衛門さんゆかりの演目がずらりと並ぶ中、播磨屋の一員として吉右衛門さんのもとで学び、女方として活躍されている中村米吉さんは第一部、二部、三部すべての部に出演されています。その米吉さんのインタビューを2度にわけてお届けします。

 後編は米吉さんが女方として歩みだされた頃のお話、中村歌六家について、播磨屋一門としての思いなどを、吉右衛門さんとのエピソードを交えてお届けします。

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「“見るとやるとは大違い”その言葉の意味を実感した梢」

――『松浦の太鼓』のお縫は非常に思い出深い役というお話でしたが、若いうちにそうした経験ができたのは幸せなことではないでしょうか。

 本当にそうですね。吉右衛門のおじさまが亡くなられ、ご一緒できたことがどれだけ幸せだったのか、得難い経験だったのか痛感しています。その経験をどうにか自分の体に落とし込まなくてはなりませんよね。そういう意味では『石切梶原』の梢も、そこに至るまでの過程も含めて感慨深い役です。

――米吉さんが『石切梶原』、つまり『梶原平三誉石切』に初めて出演されたのは2011年6月。吉右衛門さんが演じる主人公の梶原平三の家臣である大名の役でした。

 18歳の時です。大学生になり本格的に歌舞伎役者としてやっていきたいという意志を、父(中村歌六)と播磨屋一門の長である吉右衛門のおじさまに告げて間もない頃のことでした。自分の中では女方になりたいという思いはすでにあったのですが、はっきりとは言えないでいました。そうしたらその公演中におじさまが「女方やりたいのか?どうしていきたいんだ?」と聞いてくださったんです。

――察してくださったのですね。

 どうでしょうか。父がそれとなく話していたのかもしれませんね。それで腹を括って「やりたいです」と答えたら、「楽(=千穐楽)までに歩けるようになってきなさい」というお言葉をいただきました。基本の歩くお稽古がそこから本格的に始まり、楽の日におじさまの前で歩いて見せたところ「まぁ、スタートラインの手前だな」とおっしゃってくださいました。

――スタートラインの手前、ですか。

 18歳にもなってそんな初歩的なところから始めなければならないのは遅いんです。それでもおじさまは女方を学ぶ機会をつくってくださり、「お父っつぁんの六郎太夫で梢ができるようになっとくれよ」とも仰られまして、目標となりました。

――六郎太夫は梶原が目利き(=鑑定)をする刀を持参する人物。梢は六郎太夫の娘でしたね。

 いつか梢を、という思いがある中でその後もこの作品に出演する機会が2度ありましたが、どちらも大名でした。大名としてその舞台の空気を味わえたことは本当にありがたいことです。でもどこかで「次こそ」という思いもありましたから、3度目(2018年)の際には自分の不甲斐無さを感じましたし、大変生意気なことですが、がっかりしなかったと言えば嘘になりますね。

「とりわけ印象に残っているのは楽の日にいただいた言葉」

――そしてその翌年、2019年6月にチャンスが訪れました。

 それはまさに「見るとやるとは大違い」でした。身をもってその言葉の意味を実感しました。お稽古から公演期間中ずっと日々叱られ通しだったのですが、とりわけ印象に残っているのは楽の日にいただいた言葉です。

――なんとおっしゃったのですか?

 「梢は人妻なんだよ」という一言です。見た目は娘なのですが梢には夫がいて、その夫の窮地を救うために六郎太夫は家伝来の刀を売ることにしたのです。その夫への思いがあってこそ「梢になる」のです。頭では理解していても、それをどうしたら醸し出せるのか、全くどうすることもできていなかったと思います。ただ日々の舞台を勤めることで精一杯でしたから。だから最初から言っても無理だろうとおじさまは思われたのだと思います。そして「次がいつ、誰とやるかわからないが、よく覚えときなよ」とおっしゃってくださったのですが……。翌年は明けて早々にコロナ禍となってしまいましたから、真正面からおじさまにぶつかってお芝居をさせていただいたのはそれが最後となってしまいました。

――それは一生忘れられない舞台となるでしょうね。この演目は大正時代に、初世吉右衛門の梶原、三世歌六(米吉さんの高祖父)の六郎太夫、三世時蔵(米吉さんの曽祖父)の梢で上演されています。「お父さんの六郎太夫で梢ができるようにならなければ」という吉右衛門さんの言葉には、深い意味が込められているのでしょうね。

 米吉というのは父も曽祖父も高祖父も名のっているのですが、おじさまはある時、自分に「歌六を継いでくれなきゃ困るんだよ」とおっしゃいました。「親が歌六だから継げるわけじゃない。継ぐ時には親父さんも自分もいないのだから、君本人の力でならなきゃいけない。そのためにどうしたらいいかをもっともっと考えなければ」、「江戸時代に傾城歌六といわれた素晴らしい女方の初代歌六がいたからこそ、今こうして播磨屋があるのだから」と。

――江戸時代が終わり、急速に近代化していく時代の転換期を生きたのが三世歌六、つまり米吉さんの〝ひいひいおじいさま〟です。前回のインタビューでの「三世歌六は百回忌追善をしてもらえるような役者だったのだろうか」という言葉を読み解く鍵は、そこにあるようですね。

 歌舞伎にも高尚な芸術性が求められた時代であり、いわば変革期。それは高祖父の芸風とは一線を画すものだったと聞いています。不遇な時代が続く中、晩年は息子である初代吉右衛門と共演した『沼津』の平作などの老役で評判を取ったのですが、同時代を生きた人々は百年先に高祖父の追善が歌舞伎座で行われるなど思いもしなかったと思います。

――後継者である播磨屋さんご一門のご活躍あってこそ、成り立つ話ですね。

 『松浦の太鼓』の松浦侯は高祖父のキャラクターに当てて書かれた人物で、その高祖父から初代吉右衛門、吉右衛門のおじさまへと受け継がれました。その演目を百回忌追善狂言として、父の松浦侯、自分のお縫で上演できたのは、吉右衛門のおじさまがいらしてくださったからこそ、です。

2022.09.27(火)
文=清水まり
撮影(インタビュー)=松本輝一