「そうですね、見返すといい刺激になって、そこからよく話を思いついたりします。すごく嫌なことがあっても、『忘れずノートに書こう、これが小説の素になるかもしれないし』と考えられるので精神的にもいいですね」

『おいしいごはんが食べられますように』にも、ノートを開いてヒントを得た記述が、そこかしこにあるという。

 ただし今作の場合、一作が立ち上がる出発点は、ムカつきエピソードではなかった。まずもって書きたかったのはひとりの人物だった。

主眼は、インパクトのある芦川さんではなく、二谷

 作中で、キャラクターとして最もインパクトのあるのは、お菓子作りに精を出す「芦川さん」だろう。彼女が起点になったのかと思いきや、そうではない。転勤してきた男性社員・二谷を書くことが主眼だったという。

「二谷は『人並みにできていると、あるいは、人並み以上にできると思われていたい。みんなに』などと考えたりと、職場でよく思われたいという承認欲求がしっかりとあります。それは健全だと思います。会社勤めのわたしだって、職場ではできるほうだと思われたいですし、それが向上心につながってがんばれる人はいるはず。働くうえで普遍性のあるものを表現してみたいという気持ちが、どこかにあったのでしょうか」

 二谷がいなければ、芦川さんも生まれなかっただろうという。

「二谷は会社でそこそこうまくやっているし、内心では芦川さんをみくびっているけれど、表立っては女性蔑視の発言なんてしなさそう。彼が誰かと付き合うとしたら、どんな女性だろう? そう発想するなかから、芦川さんが生まれてきました。二谷は正解しか選べない人間です。大学進学の際にも、本当は文学が好きで文学部に行きたいのに、就職にいいだろうと思って経済学部を選んだりするような。つねに人生がうまくいくであろう方向へ歩いていける。そんな彼が自分の将来を考えた場合、適齢で結婚して子どもをもうけて、自分は働き続けるのが正解だと判断するはず。そのとき妻には、手料理ができて気遣いができて……、と芦川さんのような人を選ぶだろうと考えていきました」

2022.08.06(土)
文=山内宏泰