役とエッセイの「感覚」の違いを考える

――中村さんのご活動の中だと「文章を書く」は「0→1」かなと。著書『THE やんごとなき雑談』では、無から有を生み出す難しさを綴っていらっしゃいました。

 エッセイは拙い文章ではありますが、僕が両方やって思ったのは、役者の仕事でいうと役と向き合ったりする過程で自分自身のことも探しているということ。なぜなら、役と自分のリンクする部分を増やすことが、きっと役作りだから。

 体感した経験があることはそのリンクが早く生まれるし、体感したことがないものや感覚として知らないことというのはやっぱり探す旅が必要になりますよね。でもその「探す」行為はあくまで、脚本などを読んだうえで読解や想像していくものなので、0から1じゃないなという感覚があって。

 対してエッセイを書くというのは、役者の仕事と同じように自分の中から出てくるものや自分の感覚にあるものを書き出すのですが、劇中の言葉を使えばそれによって「世界を作る」。起承転結も考えつつ、エンターテインメントとして構成していくものなので、これは0から1を生み出すことなのかなと思います。

 その過程で、役と自分のリンクという意味では具体・実感がある。役のこの感覚ってなんだろう? という(自分とは違った)「この」がありますが、エッセイの場合は「この」も自分の中にあって、それを拡大していく作業なので、バランスは違ってきます。

――「自意識」の違いに関してはいかがですか?

 大きな違いでいうと、役者の場合は「こういう本だから、こういう役だから」という理由があるため、自意識はちょっと軽減されます。とはいえ、人前で芝居をするのはものすごく恥ずかしいという自意識もある(笑)。細かいポイントが役者セクションではいっぱいある感じがします。

 エッセイにおいては、0から100まで自分の自意識が邪魔しているというか(笑)、それが基にネタになってくれる自意識もあるので、用途はまた違ってきますね。

――恥ずかしさという意味の自意識もあれば、自分がこう見られているという意味での自意識もあって、使い方次第といいますか。

 そうそう。

2022.05.20(金)
文=SYO
撮影=佐藤 亘
ヘアメイク=Emiy
スタイリスト=小林 新(UM)