克己とは、自分の怠けぐせにうち勝って、努力を持続させようとみずから誓った言葉である。
しかし、そんな願いもむなしく、3日も勉強を続けることができない自分がいた。
そのことは、自分でもよくわかっていたと思う。要するに地道な努力が苦手な体質なのである。私の場合、物心ついて以来ずっとそうだった。
意志が弱いと言われれば、その通りですと頭をかくしかない。なんでも一夜漬けで、直前まで無駄な時間を使い、最後の最後になってやっと死物狂いで集中する。そういう性格をもって生れてきたのだ、と今ではあきらめている。
性格や体質は、努力によって改善できるのだろうか。できると教える啓発書は多い。少しずつでもそれを続けていけば、努力する持続力も習慣化できると説かれている。
しかし、私はそのような意見をあまり信用してはいない。努力を習慣化するのも、また努力ではないか。努力を日々の習慣化できるような人は、すでにして努力型のタイプなのだ。
しかも世の中には、努力が好き、という性格の人もいる。試験の前夜に一夜漬けというやり方が不安でたまらない人もいる。
もともと努力が好きな性格に生まれついた人は、努力を続けることが決して苦痛ではないはずだ。苦痛どころか、よろこびでさえもあるのではないか。
走るのが速い人がいる。本を読むことが好きでたまらない少年もいる。人前に出ることが生き甲斐のようなタイプもいれば、その反対の人間もいる。
なにかのきっかけで、それまでと全くちがう生き方に目覚める事もあるだろう。何かのきっかけで人格が一変するケースがあることも確かである。
しかし、それも一つの運命ではないか、と心の底でひそかにつぶやく自分がいる。
努力をしてもむくわれない場合も多い。努力を続けようと決意して、どうしても続かない事もある。現実とはそのように矛盾にみちたものなのだ。そこで自分がどの道を選ぶかは、その人の責任で決めるしかない。(#2に続く)
「血を抜かれたあとに、白い液体を注いで…」売血でその日をしのいだ若い頃、五木寛之が送った不運つづきの大学時代 へ続く
2021.12.31(金)
文=五木寛之