しかし、問題は人が自分の人種や、生まれてくる時代や、両親や、外見、体型などを自分で選択できないという点である。
絶対音感といわれる聴覚をもつ人もいる。その反対に音階やリズムに難がある人もいる。
資産家の家に生まれる子もいれば、貧しさの中で育つ子供もいる。
根が丈夫で、ほとんど病気らしい病気もせずに長生きする人もいる。どんなに摂生につとめても、絶えず病院のお世話にならなければならない人は少くない。
身体だけでなく、気質というものもある。個性というものも、才能というものも、努力すれば必ず花開くというわけではない。
人はなぜ様々な差異のもとに生まれてくるのか
「玉 磨かざれば光なし」
とは、よく耳にする言葉だ。しかし、石はどうなのか。磨けば光る玉もあれば、道ばたの石ころもある。
この自分が、はたして磨けば光彩陸離(こうさいりくり)たる玉なのか、それとも磨いても無駄な石なのか。それは誰にもわからない。だから頭から諦めずに磨いてみよ、と古人は言ったのだろう。何もしなければ光らざる玉として、無益に埋もれてしまうかもしれない。それは惜しいではないか、と。
しかし、私がこだわっているのは、なぜ人間は、玉とか石とかに区別されてこの世に生まれてくるのか、という一点にある。大声では言えないその事に対する答えは、はたしてあるのか。
なぜ人間はそのように様々な差異のもとに生まれてくるのだろう。
絶対的な神、というものの存在を信じる人びとの中には、それを神のおぼしめしだと考える立場もある。いわゆる予定説、天命説というやつだ。
また宿業という受けとめ方もある。その人の前世の行為が、現在をつくりだし、いまの生き方が来世をきめる、という説である。
しかし現代の私たちは、前世とか来世とかいう考え方になじまない。唯一の絶対神を信じるほど純粋な信仰心もない。
書店の店頭には、あきれるほど多くの自己啓発本が並んでいる。運命を変えるのは、本人の努力であるとする立場で書かれた書物だ。
2021.12.31(金)
文=五木寛之