「連勝記録が途絶えれば、次からもっといい演技ができると考えていたのは事実ですが、でも、もし負けていたら絶対に口惜しさでいたたまれなくなっていたはずです。そんな中で、“地獄”という言葉が咄嗟に出たのは、リオ五輪後にプロになって以来、大きな環境の変化があり、練習が上手くできなかった不安、日本選手権では僅差の勝利でもあり、でもそんな状態でも勝ち続けなければならないと思ったりするなど、不安や苦難が何層にも堆積し、ついあんな言葉が出てしまいました」

 それだけではない。“地獄”の言葉にはさらなる深遠な心理が隠されていた。

 

内村にとって、金メダル以上の価値があるもの

「勝っても地獄、負けても地獄なら、勝つ地獄を味わった方がいい。実は僕、地獄を結構楽しんでいるんです。地獄の状態は僕にとってはいいプレッシャーでもある。だから心理的に、自分自身を地獄に落とそうとしているのかもしれません」

 絶対王者だった内村は、モチベーション維持が難しかったという。そのため、自分を地獄に落としやり、そこから這い上がることをモチベーションにしてきたというのだ。

 自分自身を絶体絶命の状態に追いやり、そこで生き延びてこそさらに強い自分ができると言い、艱難辛苦こそが自分を鍛え、磨き、成長させるチャンスと考えていた。

 そこまでして勝利にこだわったのは自分の栄光以上に、実は、後輩たちへ繋ぎたいものがあるからという。

「僕のやったことって、これまで誰も経験したことがない領域。そこで掴んだものを後輩たちに伝えられたら、彼らは短期間で成長できると思うんです。日本体操界の底上げが、僕にとっては金メダル以上の価値がある」

 内村の薫陶を受けた選手たちは、団体では銀に終わったが、個人総合、種目別の競技は続く。個人総合優勝が狙える橋本は、まだ内村の首に金メダルを掛けるチャンスがある。しかし内村は照れながらきっとこういうに違いない。

「ちょっと待ってよ、僕、まだ引退しないし」

2021.08.06(金)
文=吉井妙子