2007年、ニューヨークのストリップクラブで出会った女の子たちによる事件を描いた映画『ハスラーズ』を、「可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい」の著者・で元セクシー女優の鈴木涼美さんが考察。

※以下の記事では、現在公開中の『ハスラーズ』の内容や結末が述べられていますのでご注意ください。

 実際の事件から着想を得た、という映画の中で、馬鹿騒ぎして男からお金引き出して贅沢しておっぱい出して踊っていた時代を振り返る主人公は、物事が上手くいかなくなって歯車が狂い出す直前のことをこんな風に言う。

「2007年はサイコーな年だったわ」

 2007年。世界では翌年のリーマンショックに繋がる米サブプライムローン問題(低所得者でも家が持てる! というアメリカン・ドリームが一気に焦げ付きまくった例のアレ)で金融市場が混乱し、『不都合な真実』(ブッシュみたいに温暖化問題から目を背けてると地球はマジでやばいと警告したアレ)のゴアがノーベル賞をもらった、そんな年。

 日本では年金記録問題(5000万件の年金加入データが消えたり消されたり宙に浮いたりしてることがわかった例のアレ)などで選挙で大敗した首相が突然辞任し、相次ぐ食品偽装問題(不二家も赤福も白い恋人も船場吉兆のささやき女将もみんな謝罪したアレ)で国民が口に入れるものに疑心暗鬼になっていた、そういう年。

私は東京で もう片方の足の置きどころを探していた

 私はその頃、未だに狂乱冷めやらぬ東京の夜の世界に片足を突っ込んだまま、数年いた日本のアダルト業界を引退し、もう片方の足の置きどころを探していた。

 5年いた大学を卒業し、別の大学院に入り、秋頃には就活情報サイトをスクロールして、髪を黒く染め、刺青の見えない服を買った。新聞社の内定をもらったのはリーマンショックの直前の初夏だ。浄化作戦を経た歌舞伎町はすっかり汚くなって、店舗型風俗はどんどん空き店舗となり、ヌキと言えばデリヘル一辺倒になりつつあった。

閉じ込め、守る「場」が失われた

 風俗が店舗型からデリバリー型に変わったことの意味や弊害はたくさんあると思うのだけど、最も大きなものの一つに「場」が失われたことがある。

 女の子を世界に繋ぎ止め、女の子同士が繋がり、女の子を閉じ込め、女の子を守るのが、何かが起こるその場所だった。時に中にいる者を外の世界から断絶させる機能を持つのも場の機能だけど、外の世界から逃げ込みたい時や、外の世界に拒絶された時に、受け止めてくれる役割も持っていた。

 「場」を失った夜の女の子たちは、やや自由になった分、やや孤独になっていったのかもしれない。

 自宅で待機し、車で移動し、ホテルで客とだけ会うスタイルすら許容するその形態は、かつて更衣ロッカーや待機部屋で作られた空気を過去のものにして、奇妙な連帯や偶然の出会いの幅を狭め、良くも悪くも「参加者」たちは、自分が今いる場所がどんな場所なのかを知る機会を失った。

 自分のいる場所を知ることは結構重要だったのかもしれない、と思う。たとえその場所が薄汚れた更衣室の生臭い椅子の上で、このままでは地獄に落ちると感じるようなところだったとしても。

 不思議なことに、「場」を失ったのは東京の夜の世界の女の子たちだけではなかった。ニューヨークのストリップクラブで出会った女の子たちによる事件を描いたその映画にも、場所の喪失と女の子たちの孤立は描かれる。

2020.02.27(木)
文=鈴木涼美