「東京」がどのようにできたか、ご存じですか?

 江戸時代のはじめ、現在の銀座や日比谷といったエリアは、まだ海の底でした。そこを埋め立て、世界屈指の大都市を築くというメガプロジェクトを立てたのが「徳川家康」です。

 大将軍の都市構想は今も街に息づいています。そんな風景と出合うため今回、『家康、江戸を建てる』の著者でもある作家・門井慶喜さんに東京をご案内いただきました。

 過去へと通じる秘密の扉を開き、時空を超えるショートトリップ。まずは江戸城を目指します。


利根川河口を東京湾から霞ヶ浦へ!
徳川家康は江戸の名プロデューサー

 テレビでドラマ化もされた門井さんの人気著作『家康、江戸を建てる』の冒頭に、こんな一幕が。

 ときは戦国の世、小田原城を見下ろす山の上。天下統一を目前にした豊臣秀吉と徳川家康が、なんと並んで立ち小便をしています。

 すると突然、秀吉が「この関東八か国をやるから、東海五か国を差し出せ」。

 それは家康の豊かな領地を奪い取り、未開の地である関東を押し付けるという策略でした。しかし驚くことに、このアンフェアな超大型トレードを家康は受け入れます。

 ナゼなのか?

 諸説ありますが門井さんは、

「当時の関東は都からは遠すぎますし、寒くて、広さ以外には何にもない。家康が自ら望んだはずはなく、秀吉に言われたから関東に行ったというのが私の考えでございます。

 それでも、何もないところから世界を作りたい、という野心が家康にはあったのかもしれません。身体は大きいし、潜在能力もある荒馬に近いような土地。その荒馬を馴らしてみよう、とでも申しましょうか」

 と説きます。

 こうして家康は江戸で壮大なスケールの都市建設プロジェクトに取り組みます。

 当時、東京は湿地で常にぬかるんでおり、非常にやせた土地でした。また、かつては関東北部から東京湾へと縦断するように流れていた利根川がたびたび氾濫。まさに水浸しの土地だったのです。

 そこで家康は利根川を「曲げる」河川改修を決意。利根川を霞ヶ浦へ注ぎ込む大工事に着手したのです。陸地に深く切り込んでいた海も少しずつ埋め立て、今の東京という土地が造られていったのでした。

 また太田道灌により1456~57年、築城された江戸城はすでに荒れ果てていたものの、徳川三代をかけて日本一の名城として再生。

 400年以上を経た今でも、家康の築いた江戸は東京の風景を形作っています。代表的なところは、やはり江戸城であった「皇居」でしょう。

2020.01.01(水)
文=上保雅美
撮影=志水 隆、佐藤 亘、文藝春秋