
19歳から10年間にもわたり、夫から性被害を受け続けてきたノンフィクションライターの濱野ちひろさん。根深く残るセックスに対する苦しみを払拭するため、そして歪んでしまったセックスの像を見直すため、人々のセックスを研究し始めたのだそう。
2019年、動物性愛者に関する研究をまとめた『聖なるズー』が大ヒットし、開高健ノンフィクション賞を受賞。
最新刊『無機質な恋人たち』では「人間と無機物との愛」がテーマに。ラブドールやセックスロボットなど、無機物をパートナーにしている人々を、国内外問わず訪ねてまわり、真摯に話を聞いて、その記録をまとめあげた。彼らたちの「無機物との愛」に向き合うなかで、見えてきたものとは?
「性愛とは何か」「愛とは何か」に切り込む最新作『無機質な恋人たち』第一章「シンテティックな愛は永遠に」より、一部を転載してお届けする。
妻は人造人間

「オーガニクスを泊めるのはなにせ久しぶりだからさ」
デイブキャットは私のためにソファベッドを引き出すのに苦労していた。不要な背もたれを取り除き、柔らかい枕を並べる。付き合いも2年目となり、気心の知れてきた私は厚意に甘えてベッドに横になった。思いのほか安らぐ寝心地に、疲れが溶け出していく。「オーガニクス(有機体)」とは人間のことで、彼独特の言い回しだ。
「オーガニクスでいるのには辟易するよ。年を取るごとに問題が出てくる。腰は痛いわ、目は遠くなるわ。いいことなんてないよね」
と、ぶつぶつ言う。
私もまた、人間であることの不都合、特に身体の様々な問題に気付かされる年齢になっていて、彼の不満につい笑ってしまう。若いころとはなにもかもが違う。体力は衰え、気力も長続きせず、見た目だってどんどん納得のいかないものに変わっていくが、どうしようもないのだ。
「シンテティクスになれるなら、いますぐなりたいよ。食事もしなくていいんだからね」
デイブキャットはけっこう本気でそんなことを言う。彼にとっては有機体であるかぎり必要な食事もシャワーも排泄も、全部面倒なことなのかもしれない。「シンテティクス(合成物質)」をどう訳せば良いだろう。少し迷うが、人造人間としておこう。これも彼独特の言葉づかいで、アンドロイドやガイノイド、ヒューマノイド、あるいはマネキンやラブドール、セックスロボットなど、人間のようで人間ではないものすべてを指す。
デイブキャットは25年間、ひとりの「女性」と結婚している。シドレという名の等身大人形とである。日本ではラブドールと呼ばれるその人形は、少し陰りのある美しい顔と完璧なスタイル、そして取り外しも可能な性器を備えている。デイブキャットとその妻は、この界隈――人間とラブドールの関係に興味を持つ研究者やジャーナリスト、日米を中心としたラブドール愛好家たち、あるいはデイブキャットの実生活での友人たち―では有名な存在だ。
シドレは名前だけでなく、性格設定、詳細な背景、数々のエピソードからなるパーソナリティを持つ。1977年7月17日生まれの蟹座。日本人の父とイギリス人の母の間に生まれ、落ち着いた口調のブリティッシュ・イングリッシュを話す。知的で読書を好み、デイブキャットが所有する本のほとんどを、彼より先に読んでしまう。週末はよく夫と一緒に映画鑑賞する。『仁義なき戦い』シリーズには夫ほど熱狂しないが、日本映画なら『千と千尋の神隠し』が好きだ。好きな音楽は80年代のブリティッシュ・ロックで、「ジョイ・ディヴィジョン」や「ザ・スミス」が特にお気に入りだ。ファッションはゴシックを一貫して好んでいて、髪の色は紫に染めている。あだ名は「しーちゃん」だ。
「最近わかったことなんだけど、シドレには日本にチンピラのおじさんがいるらしいんだよ」
初めて会った日に、デイブキャットはそう話した。「最近わかった」という言葉が気になり、どういうことかと尋ねる。
「シドレが友達に尋ねられたのさ。日本に親戚はいるのかって。それでシドレと一緒によく考えてみたら、いたんだよね、ひとり。浅草周辺で今日も飲んだくれていると思うよ。パチンコが好きで、禿げていて、背は低いんだ」
「友達って、誰に尋ねられたの」
「シドレはツイッター(現X)のアカウントを持っていて、たくさん友達がいるんだ」
笑っているデイブキャットの前で私はまごついた。 訊いてみたいことがたくさんあった。
あなたは文字通り人形と話しているのですか。人形のツイッターアカウントって、あなたが運営しているんですよね。「最近わかった」というのは、最近あなたが思いついたという解釈で正しいですか。どこまで本気で、どこから遊びなのですか。
だがこれらの質問を初対面の、等身大人形を愛し暮らしているという人に不躾にぶつけることは憚られた。第一、彼はシドレを人形と思っていないかもしれない。ふたりの間に少なくとも彼が信じる交流があるなら、「遊び」という表現も失礼にあたるだろう。これからできるだけ長く付き合いを続けたい相手の機嫌を、初日に損ねたくなかった私は、ごくりと唾を飲み込んで、質問も一緒に喉の奥に流し込んでしまった。この混乱と少しの猜疑心は、2023年の初夏、デトロイト郊外で起きたことだった。
かつてフォードによる自動車産業が栄えたデトロイトは、自動車最優先で設計されたまちづくりによって、市街地と郊外とをつなぐ地下鉄や電車はない。片道四車線を車が砂埃を上げて走り、人間の姿を見かけないこのあたりでは、歩いているのは私だけだ。まるで自分が愚かで間抜けになった気分になる。とろとろと歩きながら、デイブキャットという出会ったばかりの人物について考えた。
2025.10.16(木)
文=濱野ちひろ