愛らしい木造の灯台
宿から車でおよそ十五分。灯台の周りには駐車スペースがないということで、近場の公共駐車場に車を止め、そこからは徒歩で移動。海岸沿いの切り立った斜面に設けられた遊歩道のような道を進む。
案内してくれるのは金沢海上保安部の方々だ。道中、腰巻地蔵はこちらという案内表示があった。
進んだ先に見えてきた旧福浦灯台は木造だった。櫓に板を張ったような趣だった。
外壁にはところどころに損傷がある。灯台の周囲に設けられた防護柵も、ところどころが崩れ、折れ曲がったりしている。いずれも、地震の爪痕なのだろうか。
それを差し引いても、なんとも風情のある灯台だった。木造の灯台というのは、こんなにも愛らしいものか。
この灯台についてお話をしてくれたのは、近くの福専寺で住職をしておられる松山宗惠(まつやましゅうけい)さん。
その歴史は古く、地元の日野資信(ひのすけのぶ)が一六〇八年(慶長一三年)に船の安全を願ってこの地で篝火を焚いたのがはじまりだそうな。その後、日野吉三郎が一八七六年(明治九年)に灯台を建てた。日本最古の西洋式木造灯台だ。
しばらくは日野一族が灯台のメンテナンスを担ったが、一九〇五年(明治三八年)に村で再建され、一九五二年(昭和二七年)まで働き続けた。
松山さんによると、壁の損傷は竜巻によるものではないかという。防護柵はやはり地震。
大地震にも竜巻にも耐えてきたのだ。
健気な灯台よ、わたしはおまえがとても気に入ったぞ。
松山さんには腰巻地蔵のことも訊いてみた。
港の遊女が、馴染みになった船頭の出港を止めるため、地蔵に自らの腰巻をかけたところ、海は時化になり、船頭は長逗留をすることになった。しかし、後日、船頭は海で還らぬ人となり、遊女はそれをはかなんで死んでしまった。
腰巻地蔵にはそういう伝説があるそうだ。
旧福浦灯台から見下ろせる福浦港は、深い入り江を有し、水深が深いことから「碇いらず」とも呼ばれ、大型船もなんなく寄港できたし、海が荒れた際の避難港としてもよく使われたそうだ。
なるほど、そういう港なら置屋があってもおかしくはない。
福浦港も、江戸時代は北前船の寄港地として栄えたという。やはり、北陸の港と北前船は切っても切り離せない関係なのだ。
奈良時代には朝鮮半島からの使節団が福浦港に寄港し、ここから陸路で奈良へ向かったという。海外からの使節団を泊めてもてなす施設もあったということだろう。
福浦港を囲む海は、日本海らしくない穏やかな表情で、悠久の時の流れを湛えているようにも思えた。
もっともっと、健気で愛らしい旧福浦灯台を愛でていたかったのだが、時間が押していると編集者に尻を蹴飛ばされ、一キロほど離れたところにある新福浦灯台へ向かう。
