「同時代」から「歴史」へ
年号は歴史を考える物差しでもあります。私は昭和史を長く研究してきたこともあって、今が昭和何年なのかと考える癖があります。そうすることで、昭和の出来事と現代との距離がつかみやすくなるのです。
二〇二五年は令和七年ですが、昭和で数えると昭和百年。これは私たち日本人にとって、大きな時代の区切りだと考えます。昭和百年は、同時に戦後八十年でもあります。日本が敗戦を経験して、すでに八十年が経つ。これは、すでに昭和という時代が「同時代」から「歴史」へと移行していることを意味します。
「同時代」として昭和を見る、とはどういうことか。私たちは、いま、目の前で起きていることについて、そのときの利害関心や生の感情をもとに判断を下しがちです。同様に、同時代に起きた出来事への評価や判断には、その時々の社会や、政治、外交のあり方が否応なく反映します。昭和についていえば、すべてが敗戦というフィルターを通して解釈されてしまう傾向が強かった。たとえば、軍部といえば「暴走」「日本を戦争に導いた」というイメージが先行して、事実がどうであったかを吟味する前に、もう結論が決められていて、それを改めて検討しようとすること自体が、戦前回帰だとか反動的とみなされることもありました。
それに対して、「歴史」とは、そうしたイメージや感情などからいったん離れて、事実はどうだったのか、その時代の日本はどういう状況に置かれていたのかなどを、客観的に、いわば「白紙」の状態で見ていくことです。
より俯瞰的な議論に
この先、人々の「昭和」を見る目はますます「同時代」から「歴史」になっていくでしょう。「昭和」を経験していない人たちは増えていき、「同時代」として生きた人たちがいなくなっていくからです。
昭和が「歴史」になると、これまで「同時代」のなかで無前提に共有されていた「イメージ」や「結論」が通用しなくなります。たとえば新聞などが「日本は中国大陸に侵略した」と書くとき、そこには戦前の「軍国主義」に対する非難や、道義的な自責の念や、あるいは中国に対する引け目などが(精密に吟味されることなく)込められていました。
2025.08.09(土)